2009年5月31日日曜日

ヘレンのACIM解釈について 10/14

何が起きたのか?

もしこれまで見てきたヘレンのとってきた様々のポジションを概観するなら、(彼女自身の言葉にせよ、ケン・ワプニクの報告に基づくにせよ)、一つのことが浮き上がってきた。すなわち、それらはすべて文字通りにコースを読むことから由来している。 それらは全くコースの実際に言っていることに基づく。コースは繰り返し聖霊とイエスを世界の中で行為する者として描写している。それはあたかも聖書が神の権威を伝えるかのような語り方で、(「聖書はすべての祈りは応えられると強調している」(T-9.II.3:1))また「真のキリスト教徒」(T-3.I.1:8) をコースに似た立場を選んだ者として描写することによって、キリスト教との橋渡しを形成している。ヘレンと全く同じように、コースは自らを「普遍的なコースの形態」(M-1.4:1)の一つのあり方に過ぎないのであって、その内容はお互いに同じである。(M-1.3:5). それは自らを「実践的応用」のコースであって、「観念の遊戯」ではないと言っている。(T-11.VIII.5:3). それは「神学的思弁」を軽視し(C-In.2:4)、そして「理論的な問題は時間の無駄である」と言う。 それはワークブックを極めて重要なものと見なし、 「訓練することこそがコースの目的を可能にする」と言う。 (W-In.1:2)

したがって、ヘレンの立場は常にコースの実際の言明に基づくように思われる。ケンにとってとても一般的になったことを何か彼女がしたのかということについては手がかりさえない。つまりコースが言っていることに公然と反対する立場を取りながら、ケンはそれがコースの本当に意味することなのだと保証するのである。ケンにこうするのを許すものこそ彼の隠喩的アプローチなのである。このやり方によって、コースの内に繰り返し、平明に述べられている主題を見ながら、即座にそれらに出て行けと命ずることが出来るのである。「コースはそんなことを意味していない。それはただの隠喩だ」と言って。これは全くヘレンには見られないことだ。彼女が書いたもの、ケンが彼女について言っていることに基づく限り、彼女がケンの隠喩的アプローチを用いたという、ほんのかすかな痕跡さえも見出すことは出来ない。どう見ても、彼女は言葉に即してコースを受けとめていた。彼女はずっとコース・リテラリスト[literalist 文字通りの理解者]であったように思われる。

これまで見てきたことをどのように説明しようか?ヘレンとケンの間には純粋な一致があったのを見たが(Christian Psychology の事例で証明されたように)、またひどい相違も見てきた。説明は全く単純であると思う。ヘレンが生きていた間は、おそらく彼女とケンはだいたいにおいて一致していた。

ヘレンのACIM解釈について 9/14

Christian Psychology (つづき)

この Christian Psychology への序文の中で、彼はもはやキリスト教とコースとの断絶を橋渡しする試みを信じていないことを弁明する。 むしろ、彼の著作が今強調するのは、「相矛盾する思惟体系の間にある真実の相違」である。19 彼がForgiveness and Jesus の序文で言っているように、「これらの[コースと聖書との]間にある違いが、これら二つの精神的アプローチを並べてみせる如何なる試みも不可能にすると、私は学習者にたいして、ますます強調するようになった。20 彼はもはやその断絶の橋渡しを信じていないのは明らかである。(そしてそれを試みることさえもはや信じていない。)その代わりに、その断絶は橋渡しできないと断言する。これは彼をヘレンの見解と衝突する立場に置く。というのも彼自身の言葉によれば、彼女は「橋渡しが…不可欠であることに同意した」からである21

彼はまた聖霊とイエスが世界の中で現実に行為することを示唆する小冊子の表現からも遠ざかっている。

「私はその本で聖霊の計画、聖霊あるいはイエスが私たちを人々の元に向かわせること彼ら[聖霊やイエス]に私たちが助けを求めることについて言及したけれども、実際には聖霊(もしくはイエス)が錯覚に基づく世界に干渉することはない。それは彼らを私たちと同様正気でない者にしてしまうのだから。」22

彼はこの違いを解決しようとして、こう言っている。彼はただ聖霊があたかも世界の中で働くかのように話しただけで、彼がそうしたのは、この小冊子がユダヤ・キリスト教徒の聴衆に調子を合わせているからで、 彼らの言い回しで話そうとしたためだ。23 それが本当であるとしても、それは聖霊が世界の中で活動することに関して、彼とヘレンは決して合意していないことを意味するだろう。しかしながら私はこう信じるのだが、彼の著作全体を概観して強く心に浮かぶことは、どの思想家にも普通のこととして、彼の見解は単に時間を経て代わってしまったということだ。彼の初期の教えでは概して、聖霊を世界の中で活動する者として語っていて、あたかも言葉通りのことを意味しているように見えた。後には全く違う風に語った。以下その例を見てみよう。

ここでの問題はヘレンが先に見た二つの論点について両方とも初期のケンと一致していたことだ。彼女は聖霊とイエスが世界の中で活動することを信じていた。キリスト教とコースとの断絶を橋渡しすることの目的についても同意している。それでは、このことから彼女は後期ケンに関連してどのような位置にあるだろうか?

--------------------------------

19. Christian Psychology, p. x.

20. Forgiveness and Jesus: The Meeting Place of 'A Course in Miracles' and Christianity, 6th ed. (1st ed. 1978; 6th ed. 1998), p. xv.

21. Christian Psychology, p. ix.

22. Christian Psychology, p. xi.

23. Christian Psychology, p. x.

ヘレンのACIM解釈について 8/14

Christian Psychology キリスト教心理学

ケンが書いた最初の小冊子「A Course in Miracles のキリスト教心理学」においてヘレンは能動的な役割を演じた。ケンによれば、ヘレンは「その小冊子の編集を手伝ってくれて」8 、「ヘレンと私は現在のタイトルを思いついた。」9 きわめて重要なことは、ヘレンがその小冊子の目的を是認したということである。ケンによればこの目的は「いわゆる正統的なキリスト教の考え方とコースとの間の断絶を橋渡しすることで、コースはその伝統から来る人々のために[現れた]」のであった。10 彼はこう言う。「私たちは二人ともこの小冊子が提供するような橋渡しが不可欠であると合意した。」11 このヘレンの側の参加が明らかに含意しているのは、彼女の見解とケンの見解が少なくともその時点でかなり一致を見ていたということである。

確かに、1978年に書かれた Christian Psychology へのケンの序論がヘレンのWhat It Is (1977年) を連想させることは際立っている。 それ[What It Is ]が現在のケンの見解と相容れないのは極めて明らかであるが。ヘレンのWhat It Is のように、ケンの序論は「神学よりも経験をコースが重要視していること」12について語っている。 彼は「普遍的神学」よりも「普遍的経験」についてヘレンが行っているのと同じ一節を引用しさえしている。13 ヘレンのように彼はコースの実践的な性格を強調している。「コースの焦点は常に実践的である。」14 したがってそれは「教義上の問題」15には近づかないと、彼は(ヘレンの「理論よりもむしろ応用」を重要視するヘレンを反映して)語っている。それで彼はヘレンが引用した同じ段落をワークブックから引用する。「あなたはただその考え方を応用することを求められている。」 彼はヘレンが用いた同じ句を3つとも正確に、逐語的に用いてさえいる。 既に「神学よりも経験」は見た。彼はまた、コースは「最終的であることについては全く要求せず」、16 それは「表現の上ではキリスト教的」17であると言っている。 この時点では、ケンはヘレンの型にとてもよくはまっていたように見える。

しかしその日からケンの見解は劇的に変化した。実際、彼1996年にChristian Psychology第2版に特別な序文を書いたが、 その中で9ページの大部分を費やして何故この小冊子が、彼の後の教えから、かくも異なっているように思われるのかを説明している。 彼は「既に私の著作に親しんでいる人がこの本を読んで混乱し」ないように手配しようとした。18 同様の新しい序文は既に別の初期の著作に現れていた。それは Forgiveness and Jesus: The Meeting Place of 'A Course in Miracles' and Christianity である。(この序文は第4版のものである。) それは彼の初期の著作と教えとの間の同じような食い違いを説明しようとしたものである。

--------------------------------

8. Christian Psychology in 'A Course in Miracles,' 2nd ed. (1st ed. 1978; 2nd ed. 1992), p. ix.
9. Christian Psychology, p. ix.
10. Christian Psychology, p. viii.
11. Christian Psychology, p. ix.
12. Christian Psychology, p. 1.
13. Christian Psychology, p. 1.
14. Christian Psychology, p. 1.
15. Christian Psychology, p. 1.
16. Christian Psychology, p. 2.
17. Christian Psychology, p. 2.
18. Christian Psychology, p. xiv.

ヘレンのACIM解釈について 7/14

ヘレンの What It Is (つづき)

彼女は理論の重要性を軽視したので、 理論が表明されている巻(Text)は、彼女の説明において、そんなに良くは取り扱われていない。彼女は「Textは主として理論的である」と言い、こう続けている。

ワークブックの提供する実践的応用無しには、Text は主として一連の抽象物として留まり、コースの目的とする思考の逆転をもたらすにはほとんど十分とはいえない。

これらの短い、ほとんど熱のこもっていない Text についての論評は、ヘレンの語るコースの物語の真のヒーロー、ワークブックに導く。次の段落で、ワークブック・レッスンのためのきわめて重要な指示が与えられる。 (一日に一つのレッスンを修了しなければならないことはない。一つのレッスンで一日以上取り組んでも良い。ただし一日に一つ以上するのはいけない。) 終わりに再びワークブックをコースの実践的な力を有するものとして位置づけている。 「ワークブックの実践的性質はそのレッスンへの導きによって強調されている。それは先の精神的目的に関わるよりも、応用を通しての経験を重要視している。」前に彼女が言ったこと、すなわちコースは「理論よりも応用、神学よりも経験を強調する」を思い起こせば、これが意味することは明らかになる。だから彼女は「 Text は主として理論的である」と言ったのだ。さて彼女は「応用を通しての経験を重要視している」と私たちに語る。これら全体が意味するところはほとんど見逃しようがない。コースの価値体系において、経験と応用が最も重要であって、理論の重要性はきわめて小さく、ワークブックは経験と応用を表しており、Text は理論を表している。

ワークブックが「応用を通しての経験」に関するものであると述べた後、ヘレンはワークブックの序論の二つの段落からの引用を一纏めにして入れているが、それは考え方[ワークブックの課題]を信じることよりも、実践的応用を高く上位に置いている。 「あなたはただその考え方を応用することを求められている。…それを信じる必要はないし、受け入れる必要もなく、それを喜んで迎える必要さえない。」(Workbook, p. 2). この文脈の中で、これは理論の面にさらなる平手打ちを与えたものと思われる。[段落5・6]

この長いワークブックからの引用の後に、Manual for Teachers についての短い段落[段落7]がつづき、そのあとでヘレンはまたワークブックに戻る。ワークブックのレッスンは「学習者の学びを完了させること」を意図しているのではないと述べて、そして彼女の記事をワークブックのエピローグからの重い引用[段落9]で締めくくっている。

全体で9の内5と半分の段落がワークブックに関するものであって、そのうちの3段落はワークブックからの直接的引用である。テキストからの引用は無い。ワークブックは明らかにここでのショーのスターである。

もしあなたがケン・ワプニクの著作に親しく接しているなら、直ちにこれらはケンの視点でないことが分かるだろう。確かに、どの点においても、彼の見解は反対側の領域にある。彼はコースの理論と神学を賛美し、レッスンの実践が重要であることは軽視して、コースと他の道との根本的違いを繰り返し強調し、Text をワークブックよりも高く評価している。したがって、ここでコースに関するヘレンの公的言明に、ケンとは驚くべきほど異質な視点が見出される。ヘレンの見解からケンのそれに至る仮想された直線的流れは、とても本当に真っ直ぐには見えない。

2009年5月29日金曜日

ヘレンのACIM解釈について 6/14

ヘレンの What It Is

先の二つの件にで、ヘレンの見解についてケンの報告に拠らねばならなかった。わたしはこれらの報告が信頼に値すると考えている。確かにケンの関心は彼とヘレンとの違いを作り上げること、あるいは誇張することにはなかった。だから彼がそのような報告をするとき、私たちは信じるべきであると思う。 この問題について、また私たちはコースに関するヘレン自身の言葉を持っている。

FIP版 A Course in Miracles の序文はこのように始まっている。

ACIMへの短い序論を求める多くの人々に応えて、この序文は1977年に書かれた。最初の二つの部分 —How It Came; What It Is— はヘレン・シャクマン自身が書いた。

この序文は、したがって、きわめて重要な文書である。ヘレン自身が最初の二つの部分を学習者に、コースがいかにして現れたのか、 コースは何なのかを伝えるために書いたのである。それはA Course in Miracles についての彼女の公式声明である。 それはコース学習者に物事がどのように理解されるべきと思っていたかを表している。私は特に第2の部分、What It Is に注目したい。ざっと流して見ても、この部分は著しくワプニク的ではないように見える。

第一に、ヘレンは明らかに理論や神学に強調を置いてはいない。

[コースは]理論よりも応用を、神学よりも経験を強調する。それは、「普遍的神学は不可能だが、普遍的経験は可能であるばかりでなく、必須でもある。」と述べている (Manual, p. 77).

理論や神学に重点を置かないので、彼女はコースと他の精神的な教えの違いを軽視している。このような帰結は当然である、というのもそれらの違いは、もちろん、主として理論と神学に基づく違いなのだから。

表現の上ではキリスト教的であるが、コースは普遍的な精神的テーマを扱っている。強調していることは、それが普遍的なカリキュラムの中の一つの表現[Version]であることだ。 他にもたくさんのカリキュラムがあるが、コースが他と異なるのは単に形の上でしかない。

したがって、ヘレンによれば、コースと他の精神的な道との違いは単に「形」の上の違いでしかない。コースが教える実際の「テーマ」こそが「普遍的」なのである。

ヘレンのACIM解釈について 5/14

イエスはこの世界で何かを行うのか?

もう一つの例を見よう。ケンはヘレンが話したある出来事を語っている。 まつげが抜けて彼女の目の中に入るとき、「それに困ったことはない、イエスがいつも、彼女のために、まつげを目から取り出してくれるから。」5 この言葉はまた活動的なイエスを、彼が実際に世界の中で物事をおこなう者であることを意味している。ケンはこの間違った見解(そう彼は考えているのだが)について彼女と対決するなら、あまりにも彼女を不安にさせるのではないかと考えたので、「私はそれを問題にするのを差し控えた」と言っている。しかしヘレンとは決して直接議論しなかった事柄を、彼は私たちに次のように説明している、6 「イエスは実際には何もしなかった。ヘレンがすべてやったことである。まず彼女の側でまつげを目の中に入れて、今度はまた彼女の側でそれを自分の目から取り除いた。」7 ここでもまた、ヘレンとケンの見解は別である。

先の両方の事例においてヘレンとケンには大きな違いがみられる。ヘレンは明らかに活動的な神を信じている。彼女は聖霊を信じ、イエスが世界の中の私たちを助けるために活動的に手をさしのべることを信じている。対照的にケンは活動的な神を信じていない。 彼の記述から明らかなように、如何なる仕方によっても私たちの必要に答えてくれる存在として神を見なしてはいない。ケンの神は私たちが深い眠りに落ちているのに全く気づいていない。従って、その神は私たちを助ける如何なる理由も知らないし、私たちを助ける聖霊を創造する理由も知らない。 もし彼がそうしたなら、ケンはこう言う、彼は私たちと同様に正気ではないのだろう。

この全体が直接的に、隠喩問題、すなわちヘレンが「コースの多くが隠喩的であるというケンの見解に賛成していた」というジュディの記憶に疑念を抱かせる。この事例におけるヘレンの見解はコースの平明な言い回しを反映している。それはコースを解読する上での文字通りに受け取る litteral 研究方法を反映している。しかしケンの見解は隠喩的 metaphorical 研究方法を反映しており、それはそこにある言い回しを認めるはするが、それを隠喩であるとして退けるものだ。 確かに、ケンのアプローチの主要な特徴の一つは、活動的な神性についてのコースの多量の言い回しを全面的に却下するところにある。ヘレンは文字通りに受け取る人だから、この重要な領域において、一体彼女はケンの隠喩的アプローチを共有していたのかどうか疑問である。

--------------------------------

5. Absence from Felicity, p. 478.

6. Ken says he brought it up "indirectly a couple of years later" (Absence from Felicity, p. 478).

7. Absence from Felicity, pp. 479-480.

ヘレンのACIM解釈について 4/14

前置きが終わってここからロバート・ペリーの記事の本論に入ります。

--------------------------------

イエスが働きかけてコースを書いたのか?

コースがヘレンを通してどのようにして現れたのかということについての彼女の見解について議論する中で、ケンはこう言っている。「ヘレン自身の叙述では A Course in Miracles の書き取りはイエスが彼女の『教育上の背景、興味、経験』をイエスが用いたものである。」3 ヘレンの見解が表しているのは活動的なイエスであって、彼がコースの言い回しと表現を、彼女自身の教養や興味と交えて作り上げた。例えば、ヘレンがシェークスピアを好んでいるので、イエスはコースの多くをシェークスピア風の無韻詩の形式で書いたのである。ヘレンはそれを自分に対する特別な贈り物と受け取っていた。

ケンはしかしながら本当はイエスがヘレンのバックグラウンド、興味、経験を用いたのではなく、その影響は別の側面から来たと説明している。ヘレンにおけるこれらの要素が実はイエスの形のない、非活動的愛をコースという形に作り上げたのだと。ガラスのコップが自らの内に水を形作るように。 この見解が意味するところは明らかである。コースを造り出す過程においてイエスは完全に非活動的であった。 彼が本当に一語でも書き上げたわけではない。彼は活動的には何も著さなかった。むしろ、「ヘレンの方にコースの具体的な形態の責任がある。」4 これはイエスに責任があるという彼女の叙述と明らかに異なっている。この点に関して、ヘレンの見解とケンのそれは全く異なっている。

--------------------------------

3. The Message of 'A Course in Miracles,' Volume One: Few Choose to Listen, p. 148.

4. Few Choose to Listen, p. 150.