イエスはこの世界で何かを行うのか?
もう一つの例を見よう。ケンはヘレンが話したある出来事を語っている。 まつげが抜けて彼女の目の中に入るとき、「それに困ったことはない、イエスがいつも、彼女のために、まつげを目から取り出してくれるから。」5 この言葉はまた活動的なイエスを、彼が実際に世界の中で物事をおこなう者であることを意味している。ケンはこの間違った見解(そう彼は考えているのだが)について彼女と対決するなら、あまりにも彼女を不安にさせるのではないかと考えたので、「私はそれを問題にするのを差し控えた」と言っている。しかしヘレンとは決して直接議論しなかった事柄を、彼は私たちに次のように説明している、6 「イエスは実際には何もしなかった。ヘレンがすべてやったことである。まず彼女の側でまつげを目の中に入れて、今度はまた彼女の側でそれを自分の目から取り除いた。」7 ここでもまた、ヘレンとケンの見解は別である。
先の両方の事例においてヘレンとケンには大きな違いがみられる。ヘレンは明らかに活動的な神を信じている。彼女は聖霊を信じ、イエスが世界の中の私たちを助けるために活動的に手をさしのべることを信じている。対照的にケンは活動的な神を信じていない。 彼の記述から明らかなように、如何なる仕方によっても私たちの必要に答えてくれる存在として神を見なしてはいない。ケンの神は私たちが深い眠りに落ちているのに全く気づいていない。従って、その神は私たちを助ける如何なる理由も知らないし、私たちを助ける聖霊を創造する理由も知らない。 もし彼がそうしたなら、ケンはこう言う、彼は私たちと同様に正気ではないのだろう。
この全体が直接的に、隠喩問題、すなわちヘレンが「コースの多くが隠喩的であるというケンの見解に賛成していた」というジュディの記憶に疑念を抱かせる。この事例におけるヘレンの見解はコースの平明な言い回しを反映している。それはコースを解読する上での文字通りに受け取る litteral 研究方法を反映している。しかしケンの見解は隠喩的 metaphorical 研究方法を反映しており、それはそこにある言い回しを認めるはするが、それを隠喩であるとして退けるものだ。 確かに、ケンのアプローチの主要な特徴の一つは、活動的な神性についてのコースの多量の言い回しを全面的に却下するところにある。ヘレンは文字通りに受け取る人だから、この重要な領域において、一体彼女はケンの隠喩的アプローチを共有していたのかどうか疑問である。
--------------------------------
5. Absence from Felicity, p. 478.
6. Ken says he brought it up "indirectly a couple of years later" (Absence from Felicity, p. 478).
0 件のコメント:
コメントを投稿