2009年5月17日日曜日

マインドの意味と編集による改変 ACIM読み比べ 5

これで Gene W. Smith の記事の翻訳は終わりです。最後に扱われているのはspiritual eye の The Holy Spirit への書き換え、 will の decision への書き換えについてです。

spiritual eye の The Holy Spirit への書き換えは、既に HLC の編集者注において「 spiritual eye は聖霊を意味している」とあるのを鵜呑みにした結果でしょう。いずれにせよ人間のやることには常に過ちがつきまとう可能性があるということですね。

--------------------------------

さらにもう一つの例を第2版から考察してみよう。今度は奇跡の原則からである。奇跡の原則38はこう述べている。
“The Holy Spirit is the mechanism of miracles. He recognizes both God’s creations and your illusions. He separates the true from the false by His ability to perceive totally rather than selectively.”
「聖霊は奇跡のメカニズムである。彼は神の創造とあなたの幻想の両方を認識している。彼は真のものを間違ったものから分離するが、それは選択的にではなく、むしろ全体的に知覚する能力によるのである。」
これは明らかで問題ないように思える。但しそれを奇跡の原則5に結びつけることがなければの話だが。そこにはこう記されている。
“Miracles are habits, and should be involuntary. They should not be under conscious control. Consciously selected miracles can be misguided.”
「奇跡は習慣であり、意図的でないものであらねばならない。意識によって制御されたものであってはならない。意識的に選択された奇跡は誤った方向に導かれる可能性がある。」ことによると

こう尋ねられるかもしれない。聖霊が奇跡のメカニズムであるなら、どのようにしてそれは事柄の如何によっては誤った方向に導かれることがあるというのだろうか?聖霊は完全なる我らの導きであるのに。もう一度私たちは調査し、研究し、この見かけ上の矛盾を調和させる答えを見つけようと試みることも出来るだろう。ただしHLCの奇跡の原理39(ACIMの奇跡の原理38に対応している)の示していることを見出すことによって、再び全く新しい光がこの問題に投げかけられるだろう。そこにはこう述べられている。

“The spiritual eye is the mechanism of miracles because what it perceives is true. It perceives both the Creations of God and the creations of man. Among the creations of man, it can also separate the true from the false by its ability to perceive totally, rather than selectively. It thus becomes the proper instrument for reality testing, which always involves the necessary distinction between the false and the true. ”
「霊的な目(spiritual eye)は奇跡のメカニズムであって、というのもそれが知覚するものは真であるからだ。それは神の創造と人間の創造の両方を知覚する。人間の創造の中でも、それは選択的にではなく、全体的に知覚する能力によって、間違ったものから真のものを分離することもまたできる。このようにそれは実在をテストするのにふさわしい道具となる。それ[テスト]は、間違ったものと真のものとのなくてはならぬ区別を必然的に意味している。」

私は上の一節で“spiritual eye”の[大文字のSを]小文字に置き換えた。同様のそれに対応している“it”も同様に小文字に置き換えた。これは私の見解を反映したもので、HLCにおける用いられ方に基づいている。HLCを編集した人達は彼らの信ずるところに従って間違えてしまった。それは[HLCの]脚注に“spiritual eye”は“Holy Spirit”と同義であると記されているところに反映している信念のことである。私はそうではないということが明らかであると考えている。それが聖霊を指していれば、この一節と同様に[他のこの言葉を含む]文章が意味をなしえないのである。

スピリチュアル・アイと聖霊を同一のものとして関係づけることによる問題が指し示しているのは次のことである。(事実にそぐわないこの同一化はACIMにおいて実際は一貫して行われてはいない[訳注:FIP版Textではspiritual eyeは用いられていないのでここではHLC版を指す]、その理由はそうすることが単にうまくいかなかったからだろう)

“When the ‘lies of the serpent’ were introduced, they were specifically called ‘lies’ because they are not true. When man listened, all he heard was untruth. He does not have to continue to believe what is not true unless he chooses to do so. All of his miscreations can literally disappear in ‘the twinkling of an eye,’ because they are merely visual misperceptions. Man’s spiritual eye can sleep, but a sleeping eye can still see. What is seen in dreams seems to be very real. The Bible mentions that ‘a deep sleep fell upon Adam,’ and nowhere is there any reference to his waking up.” HLC 2.1.7
「『蛇の嘘』が入ってくると、それらの嘘は、真ではないが故に、特にただ『嘘』と呼ばれた。人が聴いたとき、彼が聴いたすべては真実でなかった。彼は真理でないものを信じ続ける必要はなかった、そうすることを選択しなければ。彼の間違った創造は文字通り一瞬にして(in ‘the twinkling of an eye,’)消え去る。何故ならそれらは単に視覚的な錯覚に過ぎないからである。人の精神の目(spiritual eye)は眠ることが出来る。しかし眠っている目でもまだ見ることができる。夢に見られたものはとても本物らしく見える。聖書が『アダムは深い眠りに落ちた』といっているが、彼が目覚めることについては何処にも語られていない。」

「人の精神の目(spiritual eye)は眠ることが出来る」ということは spiritual eye と聖霊を同一視する如何なる試みにも折り合いを付けるは出来ないのは明らかだし、「眠っている目でもまだ見ることができる」は問題をごちゃ混ぜにするばかりである。従ってスピリチュアル・アイと聖霊を同一視することは誤りであって、スピリチュアル・アイは(上の一節から明らかであるように、実在するものの代わりに夢を見ることが出来るのだから、小文字で書かれるべきものである[神のみに属するものではない])、奇跡の真のメカニズムであるものなのだ。このことは実際私たちの最初の例[マインドの無意識のレベル]に関連している。無意識のマインドは諸々の奇跡のレベルである。何故なら奇跡の原理48[FIP]はこう述べているからである。

“The Holy Spirit is the highest communication medium. Miracles do not involve this type of communication, because they are temporary communication devices. When you return to your original form of communication with God by direct revelation, the need for miracles is over.”
「聖霊は最高の意思疎通の媒体である。奇跡はこの種の意思疎通を必然的に含まない。何故ならそれらは時間的な意思疎通の道具だからである。あなたが神との直接的な啓示による意思疎通の根源的な形式に立ち戻るとき、奇跡の必要性はなくなるのである。」

これは聖霊が奇跡よりも啓示を取り扱うものでなければならないことを示唆している。この違いはより明らかになるのだが、HLCの奇跡の原則49[FIPの奇跡の原則48に相当する]を見ると、こう述べられている。

“The Holy Spirit is the Highest Communication Medium. Miracles do not involve this type of communication because they are temporary communication devices. When man returns to his original form of communication with God, the need for miracles is over. The Holy Spirit mediates higher to lower communication, keeping the direct channel from God to man open for revelation. Revelation is not reciprocal. It is always from God to man. The miracle is reciprocal because it involves equality.”
「聖霊は最高の意思疎通の媒体である。奇跡はこの種の意思疎通を必然的に含まない。何故ならそれらは時間的な意思疎通の道具だからである。人が神との意思疎通の根源的な形式に立ち戻るとき、奇跡の必要性はなくなるのである。聖霊はより高いものから低いものへの意思疎通を媒介する、啓示の為に神から人への直接的な回路を保ったままで。啓示とは相互的なものではない。それは常に神から人へと向かう。奇跡は相互的なものであって、何故ならそれは等しさを必然的に意味するからである。」

聖霊は奇跡のためのメカニズムではなく、奇跡の背後にある動機、インスピレーションであるように思われる。奇跡は意識レベルの低いマインドから、上からの聖霊のインスピレーションに対する反応・感応である。この関連において次の一節を考察しても良いだろう。

“Healing is not creating; it is reparation. The Holy Spirit promotes healing by looking beyond it to what the children of God were before healing was needed, and will be when they have been healed. This alteration of the time sequence should be quite familiar, because it is very similar to the shift変化 in the perception of time that the miracle introduces. The Holy Spirit is the motivation for miracle-mindedness; the decision to heal the separation by letting it go. Your will is still in you because God placed it in your mind, and although you can keep it asleep you cannot obliterate it.” T-5.II.1:1-5
「癒しは創造することではない。それは埋め合わせである。聖霊は、癒しを超えたところから、神の子らが癒しの前に何を必要としていて、癒されたときには何に成るのかを見ることで、癒しを促進させている。この時間の流れの修正は良く知られなければならない。それは奇跡が導入する時間の知覚における変化にとてもよく似ているからである。聖霊は奇跡を行おうという思いの動機(すなわち分離を手放すことによってそれを癒そうと決断すること)である。あなたの意志はまだあなたの内にある。というのも神があなたのマインドの内にそれを置いたのであって、たとえそれを眠らせたままにすることはできても、それを完全に破壊することは不可能だからである。」


これが私たちを直接最後の例に導く。私たちが時々見出したことだが、 HLC にある(おそらく Urtext も同様だろう)意志 ( will ) という言葉が別の言葉に置き換えられている。「癒そうとする意志 ( the will to heal) の代わりに「癒そうとする決断 ( the decision to heal ) 」が見出される。このことが次の一節においてある問題に導く。そこでは「あなたの意志 ( Your will ) 」が明らかに言及されていないのである。それは一般的な用語に於けるある人の自由意志の力に言及しているように思われるものである。ACIM版では“God Himself keeps your will alive by transmitting it from His Mind to yours as long as there is time. The miracle itself is a reflection of this union of Will between Father and Son.”「神御自身があなたの意志を生きたものとしている。時間の存する限り彼の精神からあなたの精神へそれを送り届けることによって。奇跡自体、父と子の意志のこの合一の反映である。」この文章は「意志 ( will ) 」が私たちの真の意志、父との一致において私たちが持っているものを意味しなければならないことを明確にしている。しかし癒しの議論とのつながりは未だ完全に明らかではない。私たちは HLC においてこのかわりに次の文章を見出す。

“The Holy Spirit is the motivation for miracle-mindedness; the will to heal the separation by letting it go. This will is in you because God placed it in your mind, and although you can keep it asleep, you cannot obliterate it.” 5.3.6.4-5
「聖霊は奇跡を行おうという思いの動機 ( すなわち分離を手放すことによってそれを癒そうとする意志 ) である。この意志はあなたの内にある。というのも神があなたのマインドの内にそれを置いたのであって、たとえそれを眠らせたままにすることはできても、それを完全に破壊することは不可能だからである。」

“God Himself keeps this will alive by transmitting it from His Mind to yours as long as there is time. It is partly His and partly yours. The miracle itself is just this fusion or union of will between Father and Son. ”5.3.7.1-3
「神御自身がこの意志を生きたものとしている。時間の存する限り彼の精神からあなたの精神へそれを送り届けることによって。それはある程度は彼のものであり、ある程度はあなたのものである。奇跡自体、まさに父と子の意志のこの融合、合一である。」

再びコースの出版された版は私たちが思っていたほど神的に霊感を吹き込まれたものではないことが明らかになった。ACIMの不明瞭さが初期のHLCに負けたからである。私たちは再び次のような結論に導かれた。編集されたACIMという作品はその編集者の人間の過ちを犯しやすい性質を反映していて、それがコースの最終的で完成された形式を体現しているという観念は持ちこたえることが出来ないということである。

0 件のコメント: