引き続き The meaning of mind and editing changes by Gene W. Smith を読んでいきます。
マインドのレベルについての議論はACIMを読み込んでいないので、私にはまだ明確な判断がつかないのですが、この次に出てくるCharityについての議論では明らかに編集によって文意が変わっていることが分かります。まずFIP第2版の問題の箇所が示されます。著者は Charity の奇妙な定義に困惑しますが…。
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様々な編集上の判断によって二つの版の間で多様な違いを生ずることになったが、二つの問題が残されている。第一にマインドのレベルについての素材を削除した理由は何かということ。第二に聖霊が神の創造としてではなく、マインドのレベルとして取り扱われたような仕方で書き改められた理由は何かということである。
一つはイエスの導き(guidance)によるのではないかと考えられよう。確かに、多くの人々は出版されたコースがイエスによって公認された最終版であると感じている。しかしもしそうだとすると、HLCからACIMに進むに従って混乱してくる観念の帰結と連関を見いだすのを期待することは出来ないだろう。実際、私たちはこの例においても、また別の事柄においても、厳密な議論を見出したのだが、この信念に強く反対することを以下で考察しようと思う。結論は、私はそれを堅固に立証されたと思っているが、こうなるだろう。出版されたもコースはイエスの編集した作品に相当するものではない。いくつかの編集上の判断は明らかに誤っていたと思われる。
編集上の変更が一般的に導きの結果であるという概念を一旦捨てるならば、理性がそうするように強いるからなのだが、次のことを再び考察しなければならないことになる。この事例やまた別の事例で改変を導いた理由は一体何なのか。このことに関連して、考察すべき重要なことは、これらの改変は特定の思想やコース解釈の傾向を表しているのかどうかということである。言い換えると、それらは幾分編集者の神学的立場の産物であり反映であるのか。これが私たちが考察しなければならない可能性であり、私たちがここまで見てきた一つの例から既に現れてきたものである。
出版されたコースから別の一節を考察しよう。
“Healing is an ability that developed after the separation, before which it was unnecessary. Like all aspects of the belief in space and time, it is temporary. However, as long as time persists, healing is needed as a means of protection. This is because healing rests on charity, and charity is a way of perceiving the perfection of another even if you cannot perceive it in yourself. Most of the loftier concepts of which you are capable now are time-dependent. Charity is really a weaker reflection of a much more powerful love-encompassment that is far beyond any form of charity you can conceive of as yet. Charity is essential to right-mindedness in the limited sense in which it can now be attained.” T-2.V.9
「癒しは分離の後で発達してきた能力であって、それ以前には必要とされていなかった。すべての時間と空間の信念の局面と同様に、それは時間的なものである。しかしながら、時間が存続する限り、癒しは援護の手段として必要である。これが癒しが愛(charity)に基づくという理由であって、たとえあなたがそれを自らの内に知覚しなくても、他者の完全性を知覚するための方法である。あなたの今持ちうる高尚な概念でさえほとんど時間に依存している。charityは実際、今まであなたに思いつけるどのような形の愛(charity)を もはるかに越えた、きわめて力強い愛の包括性を、不十分とはいえ反映している。限られた意味において、charityは心の正しい状態に不可欠であり、それによって今その状態に達し得るのである。」
“Charity is a way of looking at another as if he had already gone far beyond his actual accomplishments in time. Since his own thinking is faulty he cannot see the Atonement for himself, or he would have no need of charity. The charity that is accorded him is both an acknowledgment that he needs help, and a recognition that he will accept it. Both of these perceptions clearly imply their dependence on time, making it apparent that charity still lies within the limitations of this world. I said before that only revelation transcends time. The miracle, as an expression of charity, can only shorten it. It must be understood, however, that whenever you offer a miracle to another, you are shortening the suffering of both of you. This corrects retroactively as well as progressively.” T-2.V.10
「charityは他の人を、彼が実際に時間の内でなし遂げたと思っているよりも遙か遠くまで、既に進み終えているかのように見る方法でもある。その人自身の考え方には欠点があるので、自分で贖罪を見ることができずにいる、そうでなければcharityなど必要としないだろう。その人に授けられるcharityは、その人には助けが必要だと承認すると同時に、そうした助けを受け入れるだろうと認めることである。これらの知覚は両方とも、明らかに時間に依存していることを意味し、それはcharityがまだこの世の限界内にあることを明らかにする。私が以前述べたように、ただ啓示だけが時間を超越する。奇跡は、charityの表現として、それを短縮することができるだけである。しかし、あなたが他人に奇跡を提供するときはいつも、あなたは、あなたがた両者の苦しみを短くしているのだと理解しなければならない。これは未来に向かってだけでなく、過去にさかのぼっても修正する。」
私はこの一節に与えられている普通とは違ったcharityの定義に大変奇妙な印象を受けた。charityという言葉はラテン語のcaritasに由来し、その元の神学的意味において愛という基本徳目を指すものである。特により高い無私の愛、新約聖書に語られている自然を超えた愛徳を意味する。何とも奇妙なのはこの定義がcharityを「あなたがそれを自らの内に知覚しなくても、他者の完全性を知覚するための方法である」のように述べられていることである。charityは自身を愛さないものたちに特有の徳となっている。というのも彼らでさえそれによって他者を愛することが出来るのだから。
ああ、この新しい定義で自分を武装した後で、私たちは直ちに次の段落で困難に陥る。ここで私たちが学ぶのは次のことである。「charityは他の人を、彼が実際に時間の内でなし遂げたと思っているよりも遙か遠くまで、既に進み終えているかのように見る方法でもある」。読み進んでみると、私たちが見いだすのは、charityは他者の不完全性を見過ごすことを含んでいるように見える。しかし自分の不完全性を見過ごすことは何処にも見いだされない。charityの定義を与えられたのに少し奇妙に思える。思考のつながりが完全な明晰さを欠いているし、さらに様々な問題が現れ、そしてその答えを見いだすのは困難である。
1 件のコメント:
愛は他者がすでに完全な愛つまり「悟り」の状態であることを認める。
これはコースに「他者にキリストを見るものは自分にキリストを見る」?
という言葉で表される。
人はすでに悟っている、体験しているものである。
人間の間違った思い込みはまだ悟っていないという思いである。
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