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2011年12月3日土曜日

ダグラス・ハーディングとvijñāna bhairava tantram


最近カシュミール・シャイヴィズム[カシミール・シヴァ派]に興味を持って調べています。すると昔買ったOshoの『タントラ秘法の書』で解説しているヴィギャン・バイラヴ・タントラ[vijñāna bhairava  tantram]がまさにカシュミール・シャイヴィズムの重要な文献であることに気付きました。

なにかいい解説書がないか調べていると、Swami Shankarananda, “Consciousness is Everything”の抜粋が目に入りました。 見てみるとダグラス・ハーディングについて何か書いています。

「もしダグラス・ハーディングがシヴァ派のテキストのVijnanabhairavaを覗いていたなら、瞑想法62を見つけたことだろう」と書いてあります。スートラ85にそれはありました。
लीनं मूर्ध्नि वियत्सर्वं भैरवत्वेन भावयेत्।
तत्सर्वं भैरवाकारतेजस्तत्त्वं समाविशेत्॥ ८५॥
līnaṁ mūrdhni viyat sarvaṁ bhairavatvena bhāvayet |
tat sarvaṁ bhairavākāratejastattvaṁ samāviśet || 85 ||

英訳はJaideva Singh の訳文が引用されていました。

The yogi should contemplate the entire open space (or sky) under the form of the essence of Bhairava and as dissolved in his head. Then the entire universe will be absorbed in the light of Bhairava.

 「
開けた空間(または空[ソラ])は純粋意識の本質の顕現である。それを自らの頭の中に溶け込ませて観照しなさい。全宇宙は純粋意識の光の中に吸収されるだろう」

これはまさにダグラス・ハーディングの方法そのものですね。

2011年10月8日土曜日

out of the blue

Headless Way のホームページに Harding's Moment of Discovery という記事があります。
“On Having No Head”からの引用で、頭を持たない事実を発見した瞬間の描写になっています。

It was eighteen years ago, when I was thirty-three, that I made the discovery. Though it certainly came out of the blue, it did so in response to an urgent enquiry; I had for several months been absorbed in the question: what am I? The fact that I happened to be walking in the Himalayas at the time probably had little to do with it; though in that country unusual states of mind are said to come more easily. However that may be, a very still clear day, and a view from the ridge where I stood, over misty blue valleys to the highest mountain range in the world, with Kangchenjunga and Everest unprominent among its snow-peaks, made a setting worthy of the grandest vision.

ここの out of the blue というのが理解できなかったのですね。the blue って憂鬱な気持ちのことなのかと想像していました。それで邦訳をみたら、これ「突然に」という熟語だったのでした。

辞書で確認してみると確かにそう書いてありますが、どうしてそういう意味になるのかまでは説明してありません。こんな簡単なことばでできているイディオムがわからなかったことにショックを受けて、子供向けの熟語集の“Sholastic Dictionary of Idioms”を購入しました。早速探してみると“Out of the clear blue sky”の項目の中にありました。blue は沈んだ気持ちでなくて青空だったのですね。同じようなイディオムに“Bolt from the blue”があって遅くとも1800年代初めには使われていたとあります。「青天の霹靂」そのままです。

なお「青天の霹靂」の故事を語源由来辞典で調べると

青天の霹靂の「青天」は雲ひとつない澄んだ青空、「霹靂」は突然雷が鳴ること。
青天の霹靂の由来は、中国南宋の詩人「陸游(りくゆう)」が「九月四日鶏未鳴起作」の中で、
「青天、霹靂を飛ばす」と表現したことによる。
「青天、霹靂を飛ばす」は、病床に伏していた陸游が突然起き上がり、
筆を走らせた勢いを雷に喩えたもので、本来は筆の勢い表した言葉であった。

発想がまったく同じで、使われだした時期が1800年代と遅いので、 ひょっとして中国起源かと想像してしまいます。

2011年10月6日木曜日

五月際の救難信号

ダグラス・E・ハーディングの『今ここに、死と不死を見る』高木訳を読んでいて、意味の分からない一文に出会いました。

「S・O・S……S・O・S……これは私の五月際の叫びである……私はこの荒れる海で溺れてさ迷っている……!」

「五月際の叫び」???意味不明です。スペイン語訳を見ると
 Ésta es mi Llamada de Socorro 「これは私の救難信号です」
普通の素直な文章です。

原文の英語が未見なので推測すると、Llamada [appeal, signal] で「叫び」に対応しているのでしょう。ではSocorro [succor, relief, aid, help; rescue] に対応する「五月際」とはなんでしょう?

救難とMay でググると……ありましたw

メーデー (遭難信号)

メーデー(Mayday)は、音声無線で遭難信号を発信する時に国際的に使われる緊急用符号語。フランス語の「ヴネ・メデ (venez m'aider)」、すなわち「助けに来て」に由来する。一般に人命が危険にさらされているような緊急事態を知らせるのに使われ、警察、航空機の操縦士、消防士、各種交通機関などが使う。3回繰り返すのが一般的(メーデー、メーデー、メーデー)で、雑音が強い状況で似たような言葉と取り違えられることを防ぎ、同時に「メーデー呼び出し」に関する通信と実際の「メーデー呼び出し」を区別する。

2011年9月21日水曜日

ダグラス・ハーディングの聖ヨハネの引用について

ダグラス・ハーディングの翻訳を読んでいると、いろんな聖者の言葉が引用されていますが、単に聖ヨハネとされているものが、十字架の聖ヨハネ(16世紀のスペインの神秘家)の言葉であることが多いようです。

今回気になったのは『今ここに、死と不死を見る』(The Little Book of Life and Death)の15ページ。

「私は絶えず死ぬというやり方によって

自分の中に私自身を住まわせないで生きているが、

だからこそ、私は死なないのである。(聖ヨハネ)」

同書のスペイン語版(ネットで見つけたPDF)を見るとこうなっています。

Vivo sin vivir en mí
Y de tal manera espero,
Que muero porque no muero.
San Juan de la Cruz ⇒ 十字架の聖ヨハネ

どうやら詩の一節のようです。彼の全集を見てみると確かにこの詩がありました。詩の一節で検索するとアビラの聖テレサの詩もヒットします。神秘家の詩でもあり一目では意味がつかめません。

彼女の詩では2行目に二つの版があって、 一つは十字架の聖ヨハネと同じで、もう一つは“y tan alta vida espero,”(私はかくも高き生を望みます)となっています。

意味がよく分からないので『十字架の聖ヨハネ詩集』西宮カルメル会訳注で確認すると、このような訳になっていました。

私は生きないで 生きていて
死ぬ程に 待ち焦がれている
死んでいない故に 死ぬ程に。

最初の行に訳注がついていて、「en mí(私のなかに)との言葉は、生きることにも[Vivo]生きないことにも[sin vivir]かかっているようである。つまり、『私は私の中に生きないで生きていて』、あるいは『私は生きないで私の中に生きていて』。」とあります。

この詩の冒頭の3行は当時流行していたもので、もともと十字架の聖ヨハネやアビラの聖テレサの作ったものではないそうです。

2011年9月18日日曜日

奥村一郎(カルメル会の司祭)の回想録

ダグラス・ハーディングの本を読んでいて、聖ヨハネの引用として挙げられている詩が十字架の聖ヨハネ(16世紀スペインのカトリック司祭、神秘主義者)の引用であることに気づきました。

調べているうちに、『カルメル山登攀』の翻訳者である奥村一郎さんの回想録を見つけました。

キリスト教に批判的で禅に傾倒していた彼の人生は、中川宋渕禅師の思いがけないことばでまったく驚くべき展開をすることになりました。

「今、あなたはキリスト教がよく分かったと思う。しかし、まだ頭でしか分かっていない。体で分かるためには洗礼を受けなさい」
http://www.tokibo.co.jp/vitalite/pdf/no28/v28p11faith.pdf

続きはこちらでどうぞ

http://www.tokibo.co.jp/vitalite/okumura.html

2011年9月11日日曜日

ダグラス・ハーディング『顔があるもの顔がないもの』 アシーヌとは?

ダグラス・ハーディング『顔があるもの顔がないもの』高木悠鼓訳を読んでいて意味の分からない一文に出会った。プロチノスの引用なのだが…
「向こうにはたくさんの顔があるが、ここにはそのすべての顔のたった一つの頭がある。もし、自分自身の動きか、アシーヌが幸運にも引っ張って、ただ、向きを変えさえすれば、内側を見て、ここの自己、神、そして、そのすべてを見つけるだろう。」

「アシーヌが幸運にも引っ張って」のところが分からない。原文で確認したいところだが、古書でもあまり安く出回っていないようなのでネット上で該当箇所を探してみると、どうにか見つけることができました。

http://home.primus.ca/~remedy3/Questing Beyond.htm

Looking outward we see many faces, look inward and all is the One Head. If a man could but be turned about - by his own motion or by the happy pull of Athene - he would at once see God, and himself, and the All.


ギリシア神話でゼウスの頭から生まれたとされる女神アテナ(Ἀθηνᾶ, Athēnā、アテーナー)ですね。ギリシャ神話の女神の名前を英語読みしてそのまま表記しているので分からなくなっていたのでした。「アシーヌが幸運にも引っ張って」は自分で向きを変えることに対比してアテナ神の恩寵の導きによって自己への振りかえりが生じることの表現でした。

英訳を頼りにして調べると、これはプロチノスのエネアデスのエネアス6・第5論文「有るものは同一のものでありながら、同時に全体としていたるところに存在するということについて」第二編7章からの引用でした。下にこの7章の全文(英訳)があります。
http://www.sacred-texts.com/cla/plotenn/enn613.htm

参考までに『プロティノス全集』中央公論社から邦訳をあげておきます。

『つまり、「(真の)われわれのもの」や「(真の)われわれ」は(真に)有るものへと導きかえされるのであって、われわれはあの真に有るものやそれから最初に発出したものへと昇っていき、あの世界にあるものを、その影像や印影を持つことなしに直知するのである。だが、もしそうであれば、それは、われわれがあの世界に有るものだからこそなのである。それゆえ、もしわれわれが真なる知識にあずかれば、われわれはあの真に有るものとなるのであるが、それは、われわれのなかにそれらの一部を持つからではなく、われわれがその真に有るもののなかにあるからである。だが、われわればかりでなく、他のものも真に有るものであるから、われわれは(他のものも含めて)すべてが真に有るものであることになる。したがって、われわれは真に有るものであり、かつ真に有るもののすべてと渾然一体をなしていることになる。したがって、われわれはすべてであり、一つであることになる。
しかし、われわれは、自分たちの依存しているもの(すなわち「真に有るもの」)から外に目をそらすから、自分たちが一つであることに気付かないのであって、それは、内側に一つの頭を持っていながら外側に向いている多くの顔のようなものなのである。だが、もし人が自分の力によってであれ、幸運にもアテナご自身に引かれることによってであれ、(内側へと)向き直ることができるならば、彼は自己自身を神として、また万有として、見ることになるであろう。彼は、初めのうちは自分を万有として見るのでないけれども、やがて、「自分をどの方向に据えて、どのように規定すればよいのか、どこまでが自分なのか」わからないままに、有るもの全体から自分を区別することをやめ、どこにも進まず、まさに万有の据えられているその場所にとどまっているうちに、万有全体と一体化することになるのである。 』

2011年8月29日月曜日

黄檗でシンクロしています。

David R. Hawkins の “Truth vs Falsehood” を見るといろんなことをキネシオロジーで1~1000のスケールで測定した結果が掲載されている。そのなかにSpiritual Teacher という項目があって宗教家等の精神レベルの測定結果が一覧表になっているのだが、その中でHuang Po という中国人ぽい名前の人がダントツで高い数値を出していた。だがまったく心当たりがない。孔子や老子よりもはるかに高いポイントが出ているのに。

調べてみると黄檗だった。臨済ならたくさん解説書・研究書等あるけど黄檗だと語録の『伝心法要』が宇井伯壽訳と入矢義高訳の二つあるだけでどちらも絶版である。英訳になると John Eaton Calthorpe Blofeld, “The Zen Teaching of Huang Po: On the Transmission of Mind” が安く手に入るようだ。中国の古典を英訳で読むとまた違った味わいがあるのでちょっと欲しいなと思いながらそのままにしていたのだが…

ある日 Frank J. Kinslow, “Beyond Happiness” を見ていると無限の空間を発見する方法があった。やり方は簡単で、両手を前に伸ばして30センチくらいの間隔をあけて手のひらを向い合せにすると、両手で制限された空間ができる。その空間に意識を集中させながら次第にその間隔を保ったまま顔に近づける。最後には顔の横を通って、その時何を感じましたかとくるのだが、分かったような分からないような感じである。

この方法はDouglas Harding, “Look for Yourself” から借りてきたものだと書いてあるのでDouglas Harding の本をチェックしたりネットをさまよっていると、The Headless Way のホームページやその日本語版のThe Headless Way - 頭がない方法 を見つけた。そして日本語字幕の付いたYouTube の FacelessJapanFilms を見ていや驚きました。こんな方法があるのかと。

早速図書館で “On Having No Head: Zen and the Rediscovery of the Obvious” の邦訳『心眼を得る』由布翔子訳を借りて読んだ。先にダグラス・ハーディング考案の実験を済ませていたので衝撃は少なかったが、その分言いたいことがよくわかった。

最後にヒューストン・スミスの解説があった。最近は手を抜いた翻訳をよく見かけるが、原著の解説まできちんと翻訳していて親切である。
「今回の改訂版の紹介に当たっては、本書の初版がいかにして私の手元に転がり込んだか、そのいきさつを語るのが一番かと思う。
あれは一九六一年のことだった。私はオーストラリアの大学で講義を終えて帰国する途中バンコクに寄って、ジョン・ブロヘルドと彼が最近訳した黄檗と慧海の禅語録について議論をかわすことになっていた。会話が軌道にのって程なく私が持ち出した諸問題について参照するために、彼は籐のテーブルの上の前の週思いがけず送られてきたという小冊子に手をのばした。それがいま私の手元にあるこの本だったのである。彼が問題に答えるのにそれをどう利用したかは覚えていないが、彼のこの本そのものへの熱い思いだけははっきり記憶にのこっている。『このハーディングなる男は何者なのかまったく知らない』と彼はいった。『ロンドンで私の知人たちのためにタクシーの運転手をしているのかもしれない。だが彼は実によくわかっている』」
ジョン・ブロヘルドってJohn Eaton Calthorpe Blofeld だよね。う~ん、こっちに進めってことかな?!

黄檗の語録『伝心法要』は宇井伯壽訳註の岩波文庫か入矢義高訳注の『禅の語録』第八巻、または入矢訳が筑摩書房の世界古典文学全集36Aの『禅家語録I』に収録されているのでそれを求めるしかない。いずれも絶版で図書館で岩波と世界古典文学全集を借りてみた。宇井訳は訳といっても読み下し文なのでちょっと読みこなせない。ただし註が詳細なので読めなくても利用価値はある。たとえばテキストに見今とあるのを現今の意であるなど原文を注意深く読みたい人には必要だろう。入矢訳は漢文・読み下し文・現代語訳になっているのでスラスラ読める。古い訓読の誤りも修正してあるらしい。

ちなみに黄檗のポイントは960。これがどれだけ高い数値か他の人と比べてみると…
ラメッシ・バルセカール 760、ラマナ・マハルシ 720、ニサルガダッタ・マハラジ 720、パタンジャリ 715、アディ・シャンカラ 710、ラーマクリシュナ 620、ヴィヴェーカーナンダ 610、ヨガナンダ 540、シュリ・ユクテスワ 535
キリスト教系の神秘主義者で見るとアヴィラの聖テレサ 715、マイスター・エックハルト 705、マグデブルクのメヒティルド 640、タウラー 640、十字架の聖ヨハネ 605、ピオ神父 585、聖アウグスティヌス 550
ちなみに日本人では道元 740、鈴木老師[たぶん大拙でなく、Shunryu Suzuki 鈴木俊隆 1904–1971] 565
また別に Avatars and Great Spiritual Teachers という項目があり、イエス・キリスト 1000、ブッダ 1000、クリシュナ 1000、ゾロアスター 1000、十二使徒 980、神の名としてのオーム 975、洗礼者ヨハネ 930、モーゼ 910、アブラハム 850、聖パウロ 745、モハメッド(コーラン口述時) 700、モハメッド(38歳)130。