2009年6月1日月曜日

ヘレンのACIM解釈について 12/14

何が起きたのか? (つづき)

別の事例を見てみよう。Forgiveness and Jesus の中で1983年にケンは神の教師であることは何を意味するのかということを説明している。

「イエスは私たちを役割を果たすように世の中に送られます。…私たちはある人々もとへ送られます。…例えばもし、私たちの仕事が自分を大都市の貧民街に連れて行くなら…、もし私たちが苦しむ人、無視された子供達に教えるなら…、もし私たちが虐げられた人々を自由にする手助けをしようと努めるなら…。

イエスは、私たちが平和の使徒、あるいは神の教師であることを必要とします。私たちを通してのみ彼自身の人生で始めようと着手された救いのわざを完成することが出来るからです。…世の苦しみを見るために彼は私たちの目を必要とされます。しかも世を超えて輝く光を見るためにも。攻撃と暴力の反応へとおびえている人々の助けをもとめる叫びを聞くために、私たちの耳を必要とされます。 希望と慰めを彼を忘れてしまった人々に届けるために、私たちの手足を必要とされ、私たちの罪がすべて赦されているという彼の救いのメッセージを語るために、私たちの声を必要とされます。とりわけ必要とされるのは彼の愛のメッセンジャーになろうとする私たちの自発性です。」 29

これは素晴らしい。深い共感を覚える。 しかし14年後にまさに同じ問題-神の教師であることは何を意味するのか-に言及するとき、 私たちはまったく異なったイメージを見る。初期の引用の中では、彼は感動的に語った。「苦しむ人…子供達に教えるために」、虐げられた人々を解放するために、イエスは私たちの「手足」、「声」を用いる。 いまや彼はそのような観念をコースに帰することはせず、「自分を特別なものにしようとするエゴの必要」のせいにする。

「神の教師は自分のための贖罪を受け入れる必要がある。そしてその世界の救済は彼らが単にその贖罪をすること、それのみに懸かっている。 これは取るに足らないことではない。…エゴの世界と自分を特別なものにする必要性はその言葉をゆがめて受けとめ、それ次のように意味していると考える。コースの学習者は、今やうわべは神の上級教師として、行動的に他の学習者に教え、病を癒し、世界に伝導するようイエスに頼まれていると。

ある人が他の人を癒すことも、与えることも、教えることもない。エゴの錯覚しやすい本性を理解することによって自らの内なる真理をただ受け入れることだけがある。…

この点についてさらに言えば、究極的には他者を癒すことは不可能である。何故なら、もし世界が幻想なら、助けを必要とする人は存在するのだろうか?言うまでもなく、癒すという概念全体が二元的な宇宙を前提としている。神はそれを全く知らない。 …この詩にも似た一節[「教師への手引き」の締めの段落]は神の愛の象徴として受けとめるように意図されていて、言葉通りの真理としてではない。」30

この二つの長い引用を見て、それが同じ人によって書かれたと信じることの出来る人はほとんどいないだろう。1983年と1997年の間のある時点でケンは彼の見解において完全な変貌を経たのだ。

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29. Forgiveness and Jesus, pp. 326, 328.

30. Few Choose to Listen, pp. 32-34.

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