結論 (つづき)
同じように、ヘレンのコース解釈の重要性を過大評価しないようにしよう。コースに関する最も偉大なことの一つは、私たちはイエスの言葉と私たちの持つ書かれた言葉の間に現れた、何十年かの口頭の伝統に頼らないことだ。この事例では、イエスの言うように[Please take note]、誰か口述筆記 [taking dictation] した者がいた。そして私たちはまさに目の前に、紙の上に、英語でその口述筆記を持っている。(そう、最初は編集されているが、大部分はほぼ編集されないままであると言ってもよい。) 私たちは、新約聖書学者が夢見ることが出来るだけで[手に入れることの出来ないもの]、 ipsissima verba[イエスの語ったそのままの言葉], まさにその言葉を持っている。それはその言葉の中に力を持っている。 私たちはヘレンへと遡るか弱い人間の繋がりを信頼する必要はない。ただその本を開くだけでいい。
このことが私たちにどんな人の解釈でも、ヘレンの解釈も入れて、コースの実際の言葉に反していないか吟味する力を与える。だから、私はヘレンのコースについての見解を尊重するけれども、私たちがここで見てきた彼女の見解すべてに同意すると言うことは出来ない。特に彼女のText に対する明らかな軽視、コースが形においてのみ他の道と異なっているという言明には同意しない。しかしながら、私は彼女のとった根本的な解釈上のアプローチには同意する。どう見ても、彼女はコースの literalist であった。彼女は言葉の中に力があることを知っていた。
そのことを考えるなら、他の何を期待できるだろうか?もちろん、人生の目的がそれらの言葉を書き取ることにあったその女性は、それらを言葉通りに受け取っていただろう。もちろん、彼女は、まさにその言葉を割り引いて考える何か手の込んだ正当化など案出しなかった。それは彼女が長年書き写し、編集し、打ち直した言葉なのだ。そしてもちろん、彼女の周りの人々も同じようにコースを読んだ。それが言っていることを実際に意味しているかのように。そしてもちろん、私たちもそうでなければならない。それこそが自らをこの伝統の純粋な始原につなぎ止める方法なのだ。
ジュディス・スカッチ-ウィトソンとケンにはこの小論を公にする前にこの小論のコメントを求めて接触した。ケンはコメントすることを断った。ジュディからは返事を受け取っていない。
おわり
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