2011年8月29日月曜日

黄檗でシンクロしています。

David R. Hawkins の “Truth vs Falsehood” を見るといろんなことをキネシオロジーで1~1000のスケールで測定した結果が掲載されている。そのなかにSpiritual Teacher という項目があって宗教家等の精神レベルの測定結果が一覧表になっているのだが、その中でHuang Po という中国人ぽい名前の人がダントツで高い数値を出していた。だがまったく心当たりがない。孔子や老子よりもはるかに高いポイントが出ているのに。

調べてみると黄檗だった。臨済ならたくさん解説書・研究書等あるけど黄檗だと語録の『伝心法要』が宇井伯壽訳と入矢義高訳の二つあるだけでどちらも絶版である。英訳になると John Eaton Calthorpe Blofeld, “The Zen Teaching of Huang Po: On the Transmission of Mind” が安く手に入るようだ。中国の古典を英訳で読むとまた違った味わいがあるのでちょっと欲しいなと思いながらそのままにしていたのだが…

ある日 Frank J. Kinslow, “Beyond Happiness” を見ていると無限の空間を発見する方法があった。やり方は簡単で、両手を前に伸ばして30センチくらいの間隔をあけて手のひらを向い合せにすると、両手で制限された空間ができる。その空間に意識を集中させながら次第にその間隔を保ったまま顔に近づける。最後には顔の横を通って、その時何を感じましたかとくるのだが、分かったような分からないような感じである。

この方法はDouglas Harding, “Look for Yourself” から借りてきたものだと書いてあるのでDouglas Harding の本をチェックしたりネットをさまよっていると、The Headless Way のホームページやその日本語版のThe Headless Way - 頭がない方法 を見つけた。そして日本語字幕の付いたYouTube の FacelessJapanFilms を見ていや驚きました。こんな方法があるのかと。

早速図書館で “On Having No Head: Zen and the Rediscovery of the Obvious” の邦訳『心眼を得る』由布翔子訳を借りて読んだ。先にダグラス・ハーディング考案の実験を済ませていたので衝撃は少なかったが、その分言いたいことがよくわかった。

最後にヒューストン・スミスの解説があった。最近は手を抜いた翻訳をよく見かけるが、原著の解説まできちんと翻訳していて親切である。
「今回の改訂版の紹介に当たっては、本書の初版がいかにして私の手元に転がり込んだか、そのいきさつを語るのが一番かと思う。
あれは一九六一年のことだった。私はオーストラリアの大学で講義を終えて帰国する途中バンコクに寄って、ジョン・ブロヘルドと彼が最近訳した黄檗と慧海の禅語録について議論をかわすことになっていた。会話が軌道にのって程なく私が持ち出した諸問題について参照するために、彼は籐のテーブルの上の前の週思いがけず送られてきたという小冊子に手をのばした。それがいま私の手元にあるこの本だったのである。彼が問題に答えるのにそれをどう利用したかは覚えていないが、彼のこの本そのものへの熱い思いだけははっきり記憶にのこっている。『このハーディングなる男は何者なのかまったく知らない』と彼はいった。『ロンドンで私の知人たちのためにタクシーの運転手をしているのかもしれない。だが彼は実によくわかっている』」
ジョン・ブロヘルドってJohn Eaton Calthorpe Blofeld だよね。う~ん、こっちに進めってことかな?!

黄檗の語録『伝心法要』は宇井伯壽訳註の岩波文庫か入矢義高訳注の『禅の語録』第八巻、または入矢訳が筑摩書房の世界古典文学全集36Aの『禅家語録I』に収録されているのでそれを求めるしかない。いずれも絶版で図書館で岩波と世界古典文学全集を借りてみた。宇井訳は訳といっても読み下し文なのでちょっと読みこなせない。ただし註が詳細なので読めなくても利用価値はある。たとえばテキストに見今とあるのを現今の意であるなど原文を注意深く読みたい人には必要だろう。入矢訳は漢文・読み下し文・現代語訳になっているのでスラスラ読める。古い訓読の誤りも修正してあるらしい。

ちなみに黄檗のポイントは960。これがどれだけ高い数値か他の人と比べてみると…
ラメッシ・バルセカール 760、ラマナ・マハルシ 720、ニサルガダッタ・マハラジ 720、パタンジャリ 715、アディ・シャンカラ 710、ラーマクリシュナ 620、ヴィヴェーカーナンダ 610、ヨガナンダ 540、シュリ・ユクテスワ 535
キリスト教系の神秘主義者で見るとアヴィラの聖テレサ 715、マイスター・エックハルト 705、マグデブルクのメヒティルド 640、タウラー 640、十字架の聖ヨハネ 605、ピオ神父 585、聖アウグスティヌス 550
ちなみに日本人では道元 740、鈴木老師[たぶん大拙でなく、Shunryu Suzuki 鈴木俊隆 1904–1971] 565
また別に Avatars and Great Spiritual Teachers という項目があり、イエス・キリスト 1000、ブッダ 1000、クリシュナ 1000、ゾロアスター 1000、十二使徒 980、神の名としてのオーム 975、洗礼者ヨハネ 930、モーゼ 910、アブラハム 850、聖パウロ 745、モハメッド(コーラン口述時) 700、モハメッド(38歳)130。

2011年8月10日水曜日

アーサー・ガーダムと原子力

アーサー・ガーダムをご存じですか。精神科医ですが前世の記憶を持った患者を治療するうちに、キリスト教の異端で輪廻転生を信じるカタリ派の忘れ去られていた歴史を発掘することになった人です。いま大野龍一さんの翻訳によるガーダムの自伝を読んでいます。
ガーダムについて調べていたら大野龍一さんのブログにたどり着き、そこにガーダムが原子力について言及している記事を見つけました。

祝子川通信 Hourigawa Tsushin
中世キリスト教異端カタリ派の「予言」
http://koledewa.blog57.fc2.com/?m&no=73
「科学者による鉱物の放射能の研究は、非常に邪悪なものとなった。しばしば原子力エネルギーを戦争で何十万もの人々を殺戮するのに使うこと[=原爆]は逸 脱だが、それをいわゆる創造的目的のために産業用燃料として使うこと[=原発など]は賞賛すべきことだと言われる。そのような論理は粗雑で危険である。問 題の要点は、そうした知識は深い洞察力と高潔さをもった少数の人々の手によってのみ、そのような人々によってだけ研究されるべきだということである。われ われはすでに、グラハムやギラベール・ド・カストルが生の防護壁が維持されるものとして線引きした研究の範囲をはるかに越えてしまっている。こんにちで は、適切な学術的資格をもつ個人なら誰でも、物理学の研究室で自由にこうした研究を行うことができ、禍に満ちた原材料[プルトニウムなど]を解き放つこと ができるようになってしまった。霊たちは強調した。現代科学の全パターンは、邪悪で破局的な結果をもたらすものの生産に魅せられていると。科学の秘密は、 一握りの、科学が宇宙的な知識のほんの一つの局面をあらわすにすぎないのだということをよく理解した、進歩した少数派以外の人々には決して探究されること がない。そのような少数派は、僅かな人にしか明かされず、決して探究されたことのない科学的真理が存在するということを知っている。人間は自然の秘密の乱 用によって自らを最終的に破滅させるだろうということが[霊たちによって]指摘された。ありそうなのは核戦争による[終局的]破壊ではない。なぜなら、ア マチュアの予言者たちによって描かれる恐怖にもかかわらず、それで惹き起される荒廃は絶対的なものではなく、生命の絶滅を含むものではないだろうからであ る。もっとずっとありそうなことは、鉱物、とりわけ放射性物質を含む鉱物に閉じ込められた生命創造力の、人間による解放によって、頻発する地震や台風、破 局的な大洪水が惹き起されることである。人間によるエネルギーのこうした絶えざる開発は、コントロール不能の連鎖反応を惹き起し、それがこの惑星の破壊に 帰着するだろう」(『偉大なる異端』第二部・第十八章)