2009年5月31日日曜日

ヘレンのACIM解釈について 10/14

何が起きたのか?

もしこれまで見てきたヘレンのとってきた様々のポジションを概観するなら、(彼女自身の言葉にせよ、ケン・ワプニクの報告に基づくにせよ)、一つのことが浮き上がってきた。すなわち、それらはすべて文字通りにコースを読むことから由来している。 それらは全くコースの実際に言っていることに基づく。コースは繰り返し聖霊とイエスを世界の中で行為する者として描写している。それはあたかも聖書が神の権威を伝えるかのような語り方で、(「聖書はすべての祈りは応えられると強調している」(T-9.II.3:1))また「真のキリスト教徒」(T-3.I.1:8) をコースに似た立場を選んだ者として描写することによって、キリスト教との橋渡しを形成している。ヘレンと全く同じように、コースは自らを「普遍的なコースの形態」(M-1.4:1)の一つのあり方に過ぎないのであって、その内容はお互いに同じである。(M-1.3:5). それは自らを「実践的応用」のコースであって、「観念の遊戯」ではないと言っている。(T-11.VIII.5:3). それは「神学的思弁」を軽視し(C-In.2:4)、そして「理論的な問題は時間の無駄である」と言う。 それはワークブックを極めて重要なものと見なし、 「訓練することこそがコースの目的を可能にする」と言う。 (W-In.1:2)

したがって、ヘレンの立場は常にコースの実際の言明に基づくように思われる。ケンにとってとても一般的になったことを何か彼女がしたのかということについては手がかりさえない。つまりコースが言っていることに公然と反対する立場を取りながら、ケンはそれがコースの本当に意味することなのだと保証するのである。ケンにこうするのを許すものこそ彼の隠喩的アプローチなのである。このやり方によって、コースの内に繰り返し、平明に述べられている主題を見ながら、即座にそれらに出て行けと命ずることが出来るのである。「コースはそんなことを意味していない。それはただの隠喩だ」と言って。これは全くヘレンには見られないことだ。彼女が書いたもの、ケンが彼女について言っていることに基づく限り、彼女がケンの隠喩的アプローチを用いたという、ほんのかすかな痕跡さえも見出すことは出来ない。どう見ても、彼女は言葉に即してコースを受けとめていた。彼女はずっとコース・リテラリスト[literalist 文字通りの理解者]であったように思われる。

これまで見てきたことをどのように説明しようか?ヘレンとケンの間には純粋な一致があったのを見たが(Christian Psychology の事例で証明されたように)、またひどい相違も見てきた。説明は全く単純であると思う。ヘレンが生きていた間は、おそらく彼女とケンはだいたいにおいて一致していた。

ヘレンのACIM解釈について 9/14

Christian Psychology (つづき)

この Christian Psychology への序文の中で、彼はもはやキリスト教とコースとの断絶を橋渡しする試みを信じていないことを弁明する。 むしろ、彼の著作が今強調するのは、「相矛盾する思惟体系の間にある真実の相違」である。19 彼がForgiveness and Jesus の序文で言っているように、「これらの[コースと聖書との]間にある違いが、これら二つの精神的アプローチを並べてみせる如何なる試みも不可能にすると、私は学習者にたいして、ますます強調するようになった。20 彼はもはやその断絶の橋渡しを信じていないのは明らかである。(そしてそれを試みることさえもはや信じていない。)その代わりに、その断絶は橋渡しできないと断言する。これは彼をヘレンの見解と衝突する立場に置く。というのも彼自身の言葉によれば、彼女は「橋渡しが…不可欠であることに同意した」からである21

彼はまた聖霊とイエスが世界の中で現実に行為することを示唆する小冊子の表現からも遠ざかっている。

「私はその本で聖霊の計画、聖霊あるいはイエスが私たちを人々の元に向かわせること彼ら[聖霊やイエス]に私たちが助けを求めることについて言及したけれども、実際には聖霊(もしくはイエス)が錯覚に基づく世界に干渉することはない。それは彼らを私たちと同様正気でない者にしてしまうのだから。」22

彼はこの違いを解決しようとして、こう言っている。彼はただ聖霊があたかも世界の中で働くかのように話しただけで、彼がそうしたのは、この小冊子がユダヤ・キリスト教徒の聴衆に調子を合わせているからで、 彼らの言い回しで話そうとしたためだ。23 それが本当であるとしても、それは聖霊が世界の中で活動することに関して、彼とヘレンは決して合意していないことを意味するだろう。しかしながら私はこう信じるのだが、彼の著作全体を概観して強く心に浮かぶことは、どの思想家にも普通のこととして、彼の見解は単に時間を経て代わってしまったということだ。彼の初期の教えでは概して、聖霊を世界の中で活動する者として語っていて、あたかも言葉通りのことを意味しているように見えた。後には全く違う風に語った。以下その例を見てみよう。

ここでの問題はヘレンが先に見た二つの論点について両方とも初期のケンと一致していたことだ。彼女は聖霊とイエスが世界の中で活動することを信じていた。キリスト教とコースとの断絶を橋渡しすることの目的についても同意している。それでは、このことから彼女は後期ケンに関連してどのような位置にあるだろうか?

--------------------------------

19. Christian Psychology, p. x.

20. Forgiveness and Jesus: The Meeting Place of 'A Course in Miracles' and Christianity, 6th ed. (1st ed. 1978; 6th ed. 1998), p. xv.

21. Christian Psychology, p. ix.

22. Christian Psychology, p. xi.

23. Christian Psychology, p. x.

ヘレンのACIM解釈について 8/14

Christian Psychology キリスト教心理学

ケンが書いた最初の小冊子「A Course in Miracles のキリスト教心理学」においてヘレンは能動的な役割を演じた。ケンによれば、ヘレンは「その小冊子の編集を手伝ってくれて」8 、「ヘレンと私は現在のタイトルを思いついた。」9 きわめて重要なことは、ヘレンがその小冊子の目的を是認したということである。ケンによればこの目的は「いわゆる正統的なキリスト教の考え方とコースとの間の断絶を橋渡しすることで、コースはその伝統から来る人々のために[現れた]」のであった。10 彼はこう言う。「私たちは二人ともこの小冊子が提供するような橋渡しが不可欠であると合意した。」11 このヘレンの側の参加が明らかに含意しているのは、彼女の見解とケンの見解が少なくともその時点でかなり一致を見ていたということである。

確かに、1978年に書かれた Christian Psychology へのケンの序論がヘレンのWhat It Is (1977年) を連想させることは際立っている。 それ[What It Is ]が現在のケンの見解と相容れないのは極めて明らかであるが。ヘレンのWhat It Is のように、ケンの序論は「神学よりも経験をコースが重要視していること」12について語っている。 彼は「普遍的神学」よりも「普遍的経験」についてヘレンが行っているのと同じ一節を引用しさえしている。13 ヘレンのように彼はコースの実践的な性格を強調している。「コースの焦点は常に実践的である。」14 したがってそれは「教義上の問題」15には近づかないと、彼は(ヘレンの「理論よりもむしろ応用」を重要視するヘレンを反映して)語っている。それで彼はヘレンが引用した同じ段落をワークブックから引用する。「あなたはただその考え方を応用することを求められている。」 彼はヘレンが用いた同じ句を3つとも正確に、逐語的に用いてさえいる。 既に「神学よりも経験」は見た。彼はまた、コースは「最終的であることについては全く要求せず」、16 それは「表現の上ではキリスト教的」17であると言っている。 この時点では、ケンはヘレンの型にとてもよくはまっていたように見える。

しかしその日からケンの見解は劇的に変化した。実際、彼1996年にChristian Psychology第2版に特別な序文を書いたが、 その中で9ページの大部分を費やして何故この小冊子が、彼の後の教えから、かくも異なっているように思われるのかを説明している。 彼は「既に私の著作に親しんでいる人がこの本を読んで混乱し」ないように手配しようとした。18 同様の新しい序文は既に別の初期の著作に現れていた。それは Forgiveness and Jesus: The Meeting Place of 'A Course in Miracles' and Christianity である。(この序文は第4版のものである。) それは彼の初期の著作と教えとの間の同じような食い違いを説明しようとしたものである。

--------------------------------

8. Christian Psychology in 'A Course in Miracles,' 2nd ed. (1st ed. 1978; 2nd ed. 1992), p. ix.
9. Christian Psychology, p. ix.
10. Christian Psychology, p. viii.
11. Christian Psychology, p. ix.
12. Christian Psychology, p. 1.
13. Christian Psychology, p. 1.
14. Christian Psychology, p. 1.
15. Christian Psychology, p. 1.
16. Christian Psychology, p. 2.
17. Christian Psychology, p. 2.
18. Christian Psychology, p. xiv.

ヘレンのACIM解釈について 7/14

ヘレンの What It Is (つづき)

彼女は理論の重要性を軽視したので、 理論が表明されている巻(Text)は、彼女の説明において、そんなに良くは取り扱われていない。彼女は「Textは主として理論的である」と言い、こう続けている。

ワークブックの提供する実践的応用無しには、Text は主として一連の抽象物として留まり、コースの目的とする思考の逆転をもたらすにはほとんど十分とはいえない。

これらの短い、ほとんど熱のこもっていない Text についての論評は、ヘレンの語るコースの物語の真のヒーロー、ワークブックに導く。次の段落で、ワークブック・レッスンのためのきわめて重要な指示が与えられる。 (一日に一つのレッスンを修了しなければならないことはない。一つのレッスンで一日以上取り組んでも良い。ただし一日に一つ以上するのはいけない。) 終わりに再びワークブックをコースの実践的な力を有するものとして位置づけている。 「ワークブックの実践的性質はそのレッスンへの導きによって強調されている。それは先の精神的目的に関わるよりも、応用を通しての経験を重要視している。」前に彼女が言ったこと、すなわちコースは「理論よりも応用、神学よりも経験を強調する」を思い起こせば、これが意味することは明らかになる。だから彼女は「 Text は主として理論的である」と言ったのだ。さて彼女は「応用を通しての経験を重要視している」と私たちに語る。これら全体が意味するところはほとんど見逃しようがない。コースの価値体系において、経験と応用が最も重要であって、理論の重要性はきわめて小さく、ワークブックは経験と応用を表しており、Text は理論を表している。

ワークブックが「応用を通しての経験」に関するものであると述べた後、ヘレンはワークブックの序論の二つの段落からの引用を一纏めにして入れているが、それは考え方[ワークブックの課題]を信じることよりも、実践的応用を高く上位に置いている。 「あなたはただその考え方を応用することを求められている。…それを信じる必要はないし、受け入れる必要もなく、それを喜んで迎える必要さえない。」(Workbook, p. 2). この文脈の中で、これは理論の面にさらなる平手打ちを与えたものと思われる。[段落5・6]

この長いワークブックからの引用の後に、Manual for Teachers についての短い段落[段落7]がつづき、そのあとでヘレンはまたワークブックに戻る。ワークブックのレッスンは「学習者の学びを完了させること」を意図しているのではないと述べて、そして彼女の記事をワークブックのエピローグからの重い引用[段落9]で締めくくっている。

全体で9の内5と半分の段落がワークブックに関するものであって、そのうちの3段落はワークブックからの直接的引用である。テキストからの引用は無い。ワークブックは明らかにここでのショーのスターである。

もしあなたがケン・ワプニクの著作に親しく接しているなら、直ちにこれらはケンの視点でないことが分かるだろう。確かに、どの点においても、彼の見解は反対側の領域にある。彼はコースの理論と神学を賛美し、レッスンの実践が重要であることは軽視して、コースと他の道との根本的違いを繰り返し強調し、Text をワークブックよりも高く評価している。したがって、ここでコースに関するヘレンの公的言明に、ケンとは驚くべきほど異質な視点が見出される。ヘレンの見解からケンのそれに至る仮想された直線的流れは、とても本当に真っ直ぐには見えない。

2009年5月29日金曜日

ヘレンのACIM解釈について 6/14

ヘレンの What It Is

先の二つの件にで、ヘレンの見解についてケンの報告に拠らねばならなかった。わたしはこれらの報告が信頼に値すると考えている。確かにケンの関心は彼とヘレンとの違いを作り上げること、あるいは誇張することにはなかった。だから彼がそのような報告をするとき、私たちは信じるべきであると思う。 この問題について、また私たちはコースに関するヘレン自身の言葉を持っている。

FIP版 A Course in Miracles の序文はこのように始まっている。

ACIMへの短い序論を求める多くの人々に応えて、この序文は1977年に書かれた。最初の二つの部分 —How It Came; What It Is— はヘレン・シャクマン自身が書いた。

この序文は、したがって、きわめて重要な文書である。ヘレン自身が最初の二つの部分を学習者に、コースがいかにして現れたのか、 コースは何なのかを伝えるために書いたのである。それはA Course in Miracles についての彼女の公式声明である。 それはコース学習者に物事がどのように理解されるべきと思っていたかを表している。私は特に第2の部分、What It Is に注目したい。ざっと流して見ても、この部分は著しくワプニク的ではないように見える。

第一に、ヘレンは明らかに理論や神学に強調を置いてはいない。

[コースは]理論よりも応用を、神学よりも経験を強調する。それは、「普遍的神学は不可能だが、普遍的経験は可能であるばかりでなく、必須でもある。」と述べている (Manual, p. 77).

理論や神学に重点を置かないので、彼女はコースと他の精神的な教えの違いを軽視している。このような帰結は当然である、というのもそれらの違いは、もちろん、主として理論と神学に基づく違いなのだから。

表現の上ではキリスト教的であるが、コースは普遍的な精神的テーマを扱っている。強調していることは、それが普遍的なカリキュラムの中の一つの表現[Version]であることだ。 他にもたくさんのカリキュラムがあるが、コースが他と異なるのは単に形の上でしかない。

したがって、ヘレンによれば、コースと他の精神的な道との違いは単に「形」の上の違いでしかない。コースが教える実際の「テーマ」こそが「普遍的」なのである。

ヘレンのACIM解釈について 5/14

イエスはこの世界で何かを行うのか?

もう一つの例を見よう。ケンはヘレンが話したある出来事を語っている。 まつげが抜けて彼女の目の中に入るとき、「それに困ったことはない、イエスがいつも、彼女のために、まつげを目から取り出してくれるから。」5 この言葉はまた活動的なイエスを、彼が実際に世界の中で物事をおこなう者であることを意味している。ケンはこの間違った見解(そう彼は考えているのだが)について彼女と対決するなら、あまりにも彼女を不安にさせるのではないかと考えたので、「私はそれを問題にするのを差し控えた」と言っている。しかしヘレンとは決して直接議論しなかった事柄を、彼は私たちに次のように説明している、6 「イエスは実際には何もしなかった。ヘレンがすべてやったことである。まず彼女の側でまつげを目の中に入れて、今度はまた彼女の側でそれを自分の目から取り除いた。」7 ここでもまた、ヘレンとケンの見解は別である。

先の両方の事例においてヘレンとケンには大きな違いがみられる。ヘレンは明らかに活動的な神を信じている。彼女は聖霊を信じ、イエスが世界の中の私たちを助けるために活動的に手をさしのべることを信じている。対照的にケンは活動的な神を信じていない。 彼の記述から明らかなように、如何なる仕方によっても私たちの必要に答えてくれる存在として神を見なしてはいない。ケンの神は私たちが深い眠りに落ちているのに全く気づいていない。従って、その神は私たちを助ける如何なる理由も知らないし、私たちを助ける聖霊を創造する理由も知らない。 もし彼がそうしたなら、ケンはこう言う、彼は私たちと同様に正気ではないのだろう。

この全体が直接的に、隠喩問題、すなわちヘレンが「コースの多くが隠喩的であるというケンの見解に賛成していた」というジュディの記憶に疑念を抱かせる。この事例におけるヘレンの見解はコースの平明な言い回しを反映している。それはコースを解読する上での文字通りに受け取る litteral 研究方法を反映している。しかしケンの見解は隠喩的 metaphorical 研究方法を反映しており、それはそこにある言い回しを認めるはするが、それを隠喩であるとして退けるものだ。 確かに、ケンのアプローチの主要な特徴の一つは、活動的な神性についてのコースの多量の言い回しを全面的に却下するところにある。ヘレンは文字通りに受け取る人だから、この重要な領域において、一体彼女はケンの隠喩的アプローチを共有していたのかどうか疑問である。

--------------------------------

5. Absence from Felicity, p. 478.

6. Ken says he brought it up "indirectly a couple of years later" (Absence from Felicity, p. 478).

7. Absence from Felicity, pp. 479-480.

ヘレンのACIM解釈について 4/14

前置きが終わってここからロバート・ペリーの記事の本論に入ります。

--------------------------------

イエスが働きかけてコースを書いたのか?

コースがヘレンを通してどのようにして現れたのかということについての彼女の見解について議論する中で、ケンはこう言っている。「ヘレン自身の叙述では A Course in Miracles の書き取りはイエスが彼女の『教育上の背景、興味、経験』をイエスが用いたものである。」3 ヘレンの見解が表しているのは活動的なイエスであって、彼がコースの言い回しと表現を、彼女自身の教養や興味と交えて作り上げた。例えば、ヘレンがシェークスピアを好んでいるので、イエスはコースの多くをシェークスピア風の無韻詩の形式で書いたのである。ヘレンはそれを自分に対する特別な贈り物と受け取っていた。

ケンはしかしながら本当はイエスがヘレンのバックグラウンド、興味、経験を用いたのではなく、その影響は別の側面から来たと説明している。ヘレンにおけるこれらの要素が実はイエスの形のない、非活動的愛をコースという形に作り上げたのだと。ガラスのコップが自らの内に水を形作るように。 この見解が意味するところは明らかである。コースを造り出す過程においてイエスは完全に非活動的であった。 彼が本当に一語でも書き上げたわけではない。彼は活動的には何も著さなかった。むしろ、「ヘレンの方にコースの具体的な形態の責任がある。」4 これはイエスに責任があるという彼女の叙述と明らかに異なっている。この点に関して、ヘレンの見解とケンのそれは全く異なっている。

--------------------------------

3. The Message of 'A Course in Miracles,' Volume One: Few Choose to Listen, p. 148.

4. Few Choose to Listen, p. 150.

2009年5月27日水曜日

ヘレンのACIM解釈について 3/14

この小論の目的はジュディの語るお話を批判的なスポット・ライトの下に置くことである。彼女の話を検証する中で、本当に私はより大きな物語を検証している。それは何年もの間様々の形態で語られてきた話で、彼女の話はその一つに過ぎない。 だが彼女の話を検証するとはいえ、彼女がコースの歴史上ではたした役割を否認するつもりはない。ジュディは素晴らしい女性であって、過去、現在、未来にわたるすべてのコース学習者に計り知れない贈り物を与えてくれた。しかしそのことは、私たちが気づいた事実に反して、彼女の話を検証する妨げになってはならない。また彼女の話が実際に何をなしているのか認識することを妨げてもならない。 それはケン以外のすべての解釈を徹底的に退けるもので、それは彼らがコースの書記者、そしてコース自体からも切り離されることを意味している。このことを含意するために彼女の話は全くコースからの証拠を必要としない。他の解釈はただケンと一致しないということを見るだけで、論駁されるのである。

彼女の話は多くの点で疑問視されるだろう。例えば、ケン・ワプニクはヘレンから多くのコースの教えを受けたと主張しているようには見えない。 (「彼女はコースが何を語っているのか他の人々に説明するのは、直接的であれ間接的であれ、きわめてまれでした。思い起こすと2度だけそうしたことがありました。」)1 また、ビルを知っている人が彼のコース解釈はヘレンと異なっていたと主張している。ケンでさえこうほのめかしている。(「ビルは、ジュディと彼女がコースについて発表することに自分が同じ立場であると、より一層感じ始めた」)2

しかし、小さな問題は捨てておいて、二つのことに焦点をあわせようと思う。第一にヘレンのコース解釈はどのようなものなのか?第二にケンの教えはそれと調和しているのか?別の言葉で言えば、ヘレンの理解からケンの教えに至る直線的な血脈が存在するのか?ヘレンの解釈についての問題に答えるために、私はただ二つの論拠を用いるつもりだ。それはケンのヘレンについてのコメントとヘレン自身が書いたものである。私はヘレンに会ったこともないし、だから彼女をよく知るケンと彼女自身に頼ろうと思う。この小論はすぐにたやすく読めるものにはならないだろう。そして論争を引き起こすものと見なされるような結論であってもそれを描くことから逃げるようなことはしないつもりだ。この検証はやらずにすますことの出来ないものだ。このようなお話はあまりにも多くの人の心にきわめて強い支配力をおよぼして、その結果ただ検証されずにきているものなのだ。

--------------------------------

1. Absence from Felicity: The Story of Helen Schucman and Her Scribing of 'A Course in Miracles,' 1st ed., p. 363.

2. Absence from Felicity, p. 376.

ヘレンのACIM解釈について 2/14

たぶんこう言うのが安全だろう。そのようなお話はどの精神的な伝統においても語られてきたことだ。 彼らはこういうことを必要としているのだ。すなわち、その伝統は元はといえば精神的実在と直接的な触れ合いから生まれたのであり、そしてその触れ合いから流れ出た権威は不壊の繋がりをもって引き継がれている。これはまさに現在手綱を握っている統率者の、権力が存在している場に生ずる物語ではないかね。 西洋ではその物語は典型的にはこんな風に続く。「神的な存在から地上の存在者へのメッセンジャーへと続く精神的な権威の純粋な流れがあり、それが今日生きているこの人まで繋がっているのです。」このお話は信じられないほどの心理学的な力を持っている。 さてこのカトリック版の話を見てみよう。「イエスは神の子でした。そして彼はペテロに教会を創立することを委任され、現在の教皇はペテロに直に繋がる後継者なのです。」 その意味するところは明らかだ。もし教皇に一致しないなら、聖ペテロに一致しないことになり、そしてイエスにも…。あなたはこの伝統から流れ出る神的な泉に逆らっているのだ。

それはもちろん私たちに与えられたジュディの物語と同じメッセージなのだ。もしケンに一致しないなら、あなたはヘレン・シャクマンに一致しないし、イエスにも…。 あなたは A Course in Miracles が生まれてきた神的な泉に逆らっている。そんな物語は彼女だけでなく多くの人によって何年もの間話し続けられ、カトリックの物語が全キリスト教徒の間に力を及ぼしたように、コース・コミュニティに同じような力を及ぼしている。コースを学ぶ何千もの人々が精神的にこの壁に閉じ込められて生きている。ケンに一致しないことが結局「権威問題 」になると感じ(人からもそう言われ)ながら。(「権威問題」とはコース用語で神の権威を拒絶することを意味する。)これらの壁の中に生活することを好む人々もいるが、私は他の人々がそれと何年も戦い続け、 定期的にケンの権威に反乱を起こし、そして再びそれを受け入れるのを見てきた。多くの人々が最後にはコースを捨てていった。

そんな話は検証するのがきわめて重要であって、額面通りに受け取るのではだめだ。もしそれが本当であるなら、その聖なる流れを持つ人に聴き従わねばならない。というのも彼は本当にその伝統のまさにその始まりからあふれる出る真理の純粋な流れを運んでいるのだから。だがもしその話が間違っているのなら、 現在聖なる流れを引き継ぐ人に一致しないということが起こりうるのである。その伝統のまさにその始まりから全く本当にその地位にあるとしてもである。こうするのを禁じる話の本質は何なのか今や明らかにされたのだから。それは福音的な真理ではなくむしろ単なる偽りにしか過ぎない。それは、意図的であれ、意図しないものであれ、マインドコントロールの働きを持っている。

ヘレンのACIM解釈について 1/14

ACIMの情報をWebで探し始めたとき最初に見つけたのが、Circle of Atonement です。ここはいろいろな記事が豊富にあり、勉強になります。

ACIMについてもグループによって解釈が分かれている部分があり、そういう部分を知っておくことも大切かと思います。

今回紹介するのはロバート・ペリーのWhat Was Helen's Interpretation of the Course? です。

--------------------------------

2007年7・8月号のMiracle Workerでイアン・パトリクはジュディス・スカッチにインタビューしている。ジュディはコースの初期の出来事について大変貴重な情報を伝えている。彼女とケン・ワプニクが厳密に同じようにコースを理解していると主張している。 何故? それは両者とも同じ教師ヘレン・シャクマン(ACIMの書き手)から教えを受けているからである。 彼女はこう言っている。

J: コースの本質と意味を彼らに伝えるために翻訳者として完全にケンによらねばなりません。 それについて私には問題ありません。 私はケンと厳密に同じことを語るでしょう、なぜなら私たちは同じ人に教えを受けたからです。つまり、ヘレンはケンのために任命された教師であり、それは私も同じだからです。 ヘレンは解釈しなければ分からないことがあるとは決して思っていませんでした。

I: それではヘレンがあなたに教えたのですね? これらの集まりにおいて、あなたが一緒に座ってコースを学んでいたとき、ヘレンが教師であったのですね。彼女自身は自分を教師とは認めなかったけれども。

J: そうです、ヘレンは素晴らしい教師でした。 彼女はコースが何を伝えようとしているか正確に知っていました。 彼女よりよく知っている人は誰もいません。 ほとんど自分が教師だとは認めませんでしたが。 私は解釈について困惑したことはありません。 文が遠回しな表現に見えるときは、確かにそういう文章もありますが、その前と後の文章を読んでみなさい。それでもしまだ確信が持てないなら、段落全体を読んでみなさい。 答えはそこにあります。 私はこれまで解釈に困難を感じたことはありません。

I: そうですか。たとえばあなたはコースの多くが隠喩であるというケンの見解を支持するのでしょうね。

J: そうです、私が覚えている限りでは、ヘレンの見解もそうでした。 ビルは違ったアプローチをしていましたが、彼は決して異なった解釈を持っていたのではありません。 そう、彼らは一緒に書きとどめ、余すところなく議論したのです。そうでしょう?

これはわずかな言明であるが、重要なイメージを伝えている。 単なる伝達ルートではなく、ヘレン・シャクマンは「コースが語ることを厳密に知っていた」。 確かに「誰も彼女以上に知る人はいなかった」。 ヘレンに関する限り解釈は問題にならなかった。 ヘレンはそこに解釈の余地があると決して考えませんでした」。 どういう訳か、(もっともジュディスの記憶の限りではあるが)、ヘレンはこのすっきりとしたアプローチを「コースの多くは隠喩であるというケンの見解」と結びつけている。従ってコースはしばしば言っていることをそのまま意味しているのではないのである。 ビルはコースについて全くヘレンの見解を共有している。そう私たちに教えている。

それではヘレンはケン・ワプニクとジュディス・スカッチ(今ではスカッチ-ウィトソンだが)両者に教えたのだ。「ヘレンはケンのために教師に任命され、それは私も同じです。」 従って、彼ら二人はヘレン(そしてビル)と全く同じようにコースを理解するようになった。 だからコースを世界にもたらした初期のメンバーはコースをどのように理解するかについては満場一致というわけだ。 この理解は究極的には次のことに基づいたものだ。ヘレンが書き留めたは言葉は、平明で解釈されること[必要]のない意味をもち、彼女にとてもなじみ深いものであったということである。 その言葉の意味はヘレンへと(そしてビルにも)流れ込み、そして彼女を通してケンとジュディスに伝わったのである。

今や、それが含意しているのは明らかであるが、この純粋な理解がケン・ワプニクの教えから世界へと拡がるということだ。 彼を通して私たちはコースの汚れのない見解への直接的なつながりを持つことが出来るのであって、それこそヘレンに始まり、コースを与えてくれた初期メンバーに完全に分かち合われているものなのである。 ケンの現在の隠喩的アプローチでさえ意外なことにヘレン自身に由来するというのだ。

その意味するところは間違いようがない。もしコースの純粋な始まりに連なりたいなら、私たちはジュディのようになって、ケンが言うのと全く同じことを言わなければならない。「コースの本質と意味を教えるために完全にケンに頼らねばならない翻訳家」のようにならなければならない。

このようなお話は精神に強力な影響を及ぼす。 ACIMの生徒として私たちは何か純粋なことがコースを世界にもたらしたのだと信じたい。真理を語る声、この世を超えたところからの声、ヘレン・シャクマンによって明確に聞き取られた声。 そして純粋なこの始まりに繋がり提携していると感じたい。 私たちの精神的な道の根源に繋がっているのを感じたい。 そして、ここで私たちは決定的なことを聴いているのだ。その現場にいた人から。すなわち「ケンが語っているように全く同じことを言う」べきで、「コースの本質と意味を教えるケンに完全に信頼する」べきであると。

2009年5月17日日曜日

ヘレン・シャクマンのノートより


As long as you
take accurate notes, every
word is meaningful. But I
can’t always get through.
Whenever possible, I will
correct retroactively. Be
sure to note all later
corrections. They mean that
you are more receptive than you were
when I tried before.


正確にノートを取る限り一つ一つの言葉には意味がある。しかし私が常に語っていることを分からせることは出来ない。それが出来るときはいつでも、さかのぼって訂正しよう。かならず後の訂正すべてに注意しなさい。それらはあなたが、私が前に試みたときよりも、より受容力が高まっていることを意味する。

マインドの意味と編集による改変 ACIM読み比べ 5

これで Gene W. Smith の記事の翻訳は終わりです。最後に扱われているのはspiritual eye の The Holy Spirit への書き換え、 will の decision への書き換えについてです。

spiritual eye の The Holy Spirit への書き換えは、既に HLC の編集者注において「 spiritual eye は聖霊を意味している」とあるのを鵜呑みにした結果でしょう。いずれにせよ人間のやることには常に過ちがつきまとう可能性があるということですね。

--------------------------------

さらにもう一つの例を第2版から考察してみよう。今度は奇跡の原則からである。奇跡の原則38はこう述べている。
“The Holy Spirit is the mechanism of miracles. He recognizes both God’s creations and your illusions. He separates the true from the false by His ability to perceive totally rather than selectively.”
「聖霊は奇跡のメカニズムである。彼は神の創造とあなたの幻想の両方を認識している。彼は真のものを間違ったものから分離するが、それは選択的にではなく、むしろ全体的に知覚する能力によるのである。」
これは明らかで問題ないように思える。但しそれを奇跡の原則5に結びつけることがなければの話だが。そこにはこう記されている。
“Miracles are habits, and should be involuntary. They should not be under conscious control. Consciously selected miracles can be misguided.”
「奇跡は習慣であり、意図的でないものであらねばならない。意識によって制御されたものであってはならない。意識的に選択された奇跡は誤った方向に導かれる可能性がある。」ことによると

こう尋ねられるかもしれない。聖霊が奇跡のメカニズムであるなら、どのようにしてそれは事柄の如何によっては誤った方向に導かれることがあるというのだろうか?聖霊は完全なる我らの導きであるのに。もう一度私たちは調査し、研究し、この見かけ上の矛盾を調和させる答えを見つけようと試みることも出来るだろう。ただしHLCの奇跡の原理39(ACIMの奇跡の原理38に対応している)の示していることを見出すことによって、再び全く新しい光がこの問題に投げかけられるだろう。そこにはこう述べられている。

“The spiritual eye is the mechanism of miracles because what it perceives is true. It perceives both the Creations of God and the creations of man. Among the creations of man, it can also separate the true from the false by its ability to perceive totally, rather than selectively. It thus becomes the proper instrument for reality testing, which always involves the necessary distinction between the false and the true. ”
「霊的な目(spiritual eye)は奇跡のメカニズムであって、というのもそれが知覚するものは真であるからだ。それは神の創造と人間の創造の両方を知覚する。人間の創造の中でも、それは選択的にではなく、全体的に知覚する能力によって、間違ったものから真のものを分離することもまたできる。このようにそれは実在をテストするのにふさわしい道具となる。それ[テスト]は、間違ったものと真のものとのなくてはならぬ区別を必然的に意味している。」

私は上の一節で“spiritual eye”の[大文字のSを]小文字に置き換えた。同様のそれに対応している“it”も同様に小文字に置き換えた。これは私の見解を反映したもので、HLCにおける用いられ方に基づいている。HLCを編集した人達は彼らの信ずるところに従って間違えてしまった。それは[HLCの]脚注に“spiritual eye”は“Holy Spirit”と同義であると記されているところに反映している信念のことである。私はそうではないということが明らかであると考えている。それが聖霊を指していれば、この一節と同様に[他のこの言葉を含む]文章が意味をなしえないのである。

スピリチュアル・アイと聖霊を同一のものとして関係づけることによる問題が指し示しているのは次のことである。(事実にそぐわないこの同一化はACIMにおいて実際は一貫して行われてはいない[訳注:FIP版Textではspiritual eyeは用いられていないのでここではHLC版を指す]、その理由はそうすることが単にうまくいかなかったからだろう)

“When the ‘lies of the serpent’ were introduced, they were specifically called ‘lies’ because they are not true. When man listened, all he heard was untruth. He does not have to continue to believe what is not true unless he chooses to do so. All of his miscreations can literally disappear in ‘the twinkling of an eye,’ because they are merely visual misperceptions. Man’s spiritual eye can sleep, but a sleeping eye can still see. What is seen in dreams seems to be very real. The Bible mentions that ‘a deep sleep fell upon Adam,’ and nowhere is there any reference to his waking up.” HLC 2.1.7
「『蛇の嘘』が入ってくると、それらの嘘は、真ではないが故に、特にただ『嘘』と呼ばれた。人が聴いたとき、彼が聴いたすべては真実でなかった。彼は真理でないものを信じ続ける必要はなかった、そうすることを選択しなければ。彼の間違った創造は文字通り一瞬にして(in ‘the twinkling of an eye,’)消え去る。何故ならそれらは単に視覚的な錯覚に過ぎないからである。人の精神の目(spiritual eye)は眠ることが出来る。しかし眠っている目でもまだ見ることができる。夢に見られたものはとても本物らしく見える。聖書が『アダムは深い眠りに落ちた』といっているが、彼が目覚めることについては何処にも語られていない。」

「人の精神の目(spiritual eye)は眠ることが出来る」ということは spiritual eye と聖霊を同一視する如何なる試みにも折り合いを付けるは出来ないのは明らかだし、「眠っている目でもまだ見ることができる」は問題をごちゃ混ぜにするばかりである。従ってスピリチュアル・アイと聖霊を同一視することは誤りであって、スピリチュアル・アイは(上の一節から明らかであるように、実在するものの代わりに夢を見ることが出来るのだから、小文字で書かれるべきものである[神のみに属するものではない])、奇跡の真のメカニズムであるものなのだ。このことは実際私たちの最初の例[マインドの無意識のレベル]に関連している。無意識のマインドは諸々の奇跡のレベルである。何故なら奇跡の原理48[FIP]はこう述べているからである。

“The Holy Spirit is the highest communication medium. Miracles do not involve this type of communication, because they are temporary communication devices. When you return to your original form of communication with God by direct revelation, the need for miracles is over.”
「聖霊は最高の意思疎通の媒体である。奇跡はこの種の意思疎通を必然的に含まない。何故ならそれらは時間的な意思疎通の道具だからである。あなたが神との直接的な啓示による意思疎通の根源的な形式に立ち戻るとき、奇跡の必要性はなくなるのである。」

これは聖霊が奇跡よりも啓示を取り扱うものでなければならないことを示唆している。この違いはより明らかになるのだが、HLCの奇跡の原則49[FIPの奇跡の原則48に相当する]を見ると、こう述べられている。

“The Holy Spirit is the Highest Communication Medium. Miracles do not involve this type of communication because they are temporary communication devices. When man returns to his original form of communication with God, the need for miracles is over. The Holy Spirit mediates higher to lower communication, keeping the direct channel from God to man open for revelation. Revelation is not reciprocal. It is always from God to man. The miracle is reciprocal because it involves equality.”
「聖霊は最高の意思疎通の媒体である。奇跡はこの種の意思疎通を必然的に含まない。何故ならそれらは時間的な意思疎通の道具だからである。人が神との意思疎通の根源的な形式に立ち戻るとき、奇跡の必要性はなくなるのである。聖霊はより高いものから低いものへの意思疎通を媒介する、啓示の為に神から人への直接的な回路を保ったままで。啓示とは相互的なものではない。それは常に神から人へと向かう。奇跡は相互的なものであって、何故ならそれは等しさを必然的に意味するからである。」

聖霊は奇跡のためのメカニズムではなく、奇跡の背後にある動機、インスピレーションであるように思われる。奇跡は意識レベルの低いマインドから、上からの聖霊のインスピレーションに対する反応・感応である。この関連において次の一節を考察しても良いだろう。

“Healing is not creating; it is reparation. The Holy Spirit promotes healing by looking beyond it to what the children of God were before healing was needed, and will be when they have been healed. This alteration of the time sequence should be quite familiar, because it is very similar to the shift変化 in the perception of time that the miracle introduces. The Holy Spirit is the motivation for miracle-mindedness; the decision to heal the separation by letting it go. Your will is still in you because God placed it in your mind, and although you can keep it asleep you cannot obliterate it.” T-5.II.1:1-5
「癒しは創造することではない。それは埋め合わせである。聖霊は、癒しを超えたところから、神の子らが癒しの前に何を必要としていて、癒されたときには何に成るのかを見ることで、癒しを促進させている。この時間の流れの修正は良く知られなければならない。それは奇跡が導入する時間の知覚における変化にとてもよく似ているからである。聖霊は奇跡を行おうという思いの動機(すなわち分離を手放すことによってそれを癒そうと決断すること)である。あなたの意志はまだあなたの内にある。というのも神があなたのマインドの内にそれを置いたのであって、たとえそれを眠らせたままにすることはできても、それを完全に破壊することは不可能だからである。」


これが私たちを直接最後の例に導く。私たちが時々見出したことだが、 HLC にある(おそらく Urtext も同様だろう)意志 ( will ) という言葉が別の言葉に置き換えられている。「癒そうとする意志 ( the will to heal) の代わりに「癒そうとする決断 ( the decision to heal ) 」が見出される。このことが次の一節においてある問題に導く。そこでは「あなたの意志 ( Your will ) 」が明らかに言及されていないのである。それは一般的な用語に於けるある人の自由意志の力に言及しているように思われるものである。ACIM版では“God Himself keeps your will alive by transmitting it from His Mind to yours as long as there is time. The miracle itself is a reflection of this union of Will between Father and Son.”「神御自身があなたの意志を生きたものとしている。時間の存する限り彼の精神からあなたの精神へそれを送り届けることによって。奇跡自体、父と子の意志のこの合一の反映である。」この文章は「意志 ( will ) 」が私たちの真の意志、父との一致において私たちが持っているものを意味しなければならないことを明確にしている。しかし癒しの議論とのつながりは未だ完全に明らかではない。私たちは HLC においてこのかわりに次の文章を見出す。

“The Holy Spirit is the motivation for miracle-mindedness; the will to heal the separation by letting it go. This will is in you because God placed it in your mind, and although you can keep it asleep, you cannot obliterate it.” 5.3.6.4-5
「聖霊は奇跡を行おうという思いの動機 ( すなわち分離を手放すことによってそれを癒そうとする意志 ) である。この意志はあなたの内にある。というのも神があなたのマインドの内にそれを置いたのであって、たとえそれを眠らせたままにすることはできても、それを完全に破壊することは不可能だからである。」

“God Himself keeps this will alive by transmitting it from His Mind to yours as long as there is time. It is partly His and partly yours. The miracle itself is just this fusion or union of will between Father and Son. ”5.3.7.1-3
「神御自身がこの意志を生きたものとしている。時間の存する限り彼の精神からあなたの精神へそれを送り届けることによって。それはある程度は彼のものであり、ある程度はあなたのものである。奇跡自体、まさに父と子の意志のこの融合、合一である。」

再びコースの出版された版は私たちが思っていたほど神的に霊感を吹き込まれたものではないことが明らかになった。ACIMの不明瞭さが初期のHLCに負けたからである。私たちは再び次のような結論に導かれた。編集されたACIMという作品はその編集者の人間の過ちを犯しやすい性質を反映していて、それがコースの最終的で完成された形式を体現しているという観念は持ちこたえることが出来ないということである。

マインドの意味と編集による改変 ACIM読み比べ 4

今回翻訳する部分で比較されているところをまず見ていただきましょう。上がHLC版、下がFIP版です。HLCで2文であるところをFIP版では1文に圧縮されていますね。さて上の文章を見て編集が必要であるように何か欠陥が見えるでしょうか?聖書の言葉の神がなにか犠牲を必要としているように見えるところでイエスによる?新しい解釈が示されています。

文章の構造を見ると「AはBを意味する。CはDを意味する」ですが、編集によって真ん中の部分がごっそり削除されて「AはDを意味する」になりました。確かにコンパクトになりましたが意味が通じるでしょうか?

‘Lead us not into temptation’ means ‘guide us out of our own errors.’ ‘Take up thy cross and follow me’ means ‘recognize your errors and choose to abandon them by following my guidance.’

‘Lead us not into temptation’ means ‘Recognize your errors and choose to abandon them by following my guidance’. (T-1.III.4:7)

--------------------------------

それではFIP第2版の次の一文を考察しよう。

“‘Lead us not into temptation’ means ‘Recognize your errors and choose to abandon them by following my guidance’.” (T-1.III.4:7)

「『私たちを試みにあわせないでください』は『あなたの過ちを認識し、私の導きに従ってそれらを放棄するよう決断しなさい』を意味する。」(T-1.III.4:7) これは疑いなくいささか意味不明の一文である。私たちは再解釈を求める一方で、またオリジナルの叙述とその再解釈された形とのつながりを描写しようと思う。「試みにあわさ[ない]こと」と「導きに従うこと」のつながりは十分明らかである。しかし「過ちの認識」はその全体像のなかで何処に入るのだろうか?

HLCではこれに代わって次のように述べられている。奇跡の原則36より、

“‘Lead us not into temptation’ means ‘guide us out of our own errors.’ ‘Take up thy cross and follow me’ means ‘recognize your errors and choose to abandon them by following my guidance.’”

「『私たちを試みにあわせないでください』は『私たち自身の間違いから導き出してください』を意味する。『汝の十字架を取って私に従え』は『あなたの間違いを認識し私の導きに従ってそれらを捨てなさい』を意味する。」

「試みにあわせないでください」と「私たちの自身の間違いから導き出してください」とのつながりは明白である。「汝の十字架を取って私に従え」は、私たちを贖罪の道へと誘う、たとえそれが困難な道であっても。「あなたの間違いを認識し私の導きに従ってそれらを捨てなさい」はそれと全く同じ事である。というのも間違いの認識とそれを捨てようと決意することは困難な事として経験されうるから。除去されているのは何かしら犠牲をほのめかしているものである。古く粗野な十字架にしがみつくのではなく、私たちは自分の過ちと自分の愚かな磔刑への旅を捨て去るようにと招かれたのである。ここでも、[編集によって]明晰さが混乱に置き換えられていたように思われる。

マインドの意味と編集による改変 ACIM読み比べ 3

引き続き先の「ACIM読み比べ2」に引用されている同じ部分をHLC版で読み込んでいる部分です。
Charityの定義をFIP2版とHLCを並べて見ましょう。上がHLC、下がFIPです。
This is because healing rests on charity, and charity is a way of perceiving the perfection of another even if he cannot perceive it himself.
This is because healing rests on charity, and charity is a way of perceiving the perfection of another even if you cannot perceive it in yourself.
変更されているのは色を変えているところですが、編集前のHLCを見て編集が必要であると見えるでしょうか。しかもheをyouに、himselfをyourselfに変更することによって同一人物を指しているanotherとhe(himself )が別人になってしまいました。
他にもmanをyouに書き換えたり、man自体を消去するために文の構造自体を変えて書き換えたりしてます。こんな風に、上がHLCで下がFIPです。
Healing is an ability lent to man after the separation, …
Healing is an ability that developed after the separation, …
どうもKenneth Wapnick さんはman とか he のような性差のある言葉を消したかったようですね。
これは米国の聖書の翻訳に現れた女性に配慮した書き換えと同じ傾向のように思えます。しかし技術的に性差をもつ言葉を性差の無い言葉に文意を変えることなく変更するのはかなり難しいことです。元の意味が見えなくまで編集の手を加えるのはいうまでもなくやり過ぎです。
それでは翻訳の続きです。

--------------------------------

しかしこの一節をヒュー・リン・ケイシー版のテキストで別様に読むとき、再び見失った意味が混乱した状況のもとに戻ってくる。

“Healing is an ability lent to man after the separation, before which it was completely unnecessary. Like all aspects of the space-time belief, healing ability is temporary. However, as long as time persists, healing is needed as a means for human protection. This is because healing rests on charity, and charity is a way of perceiving the perfection of another even if he cannot perceive it himself. ”2.3.18.3-6
「癒しは分離の後で人に与えられた能力であって、それ以前には全く必要とされていなかった。すべての時空の信念の局面と同様に、癒しの能力は時間的なものである。しかしながら、時間が存続する限り、癒しは人を援護する手段として必要である。これが癒しが愛(charity)に基づくという理由であって、たとえ他の人がそれを自らの内に知覚しなくても、彼の完全性を知覚するための方法である。」

“Most of the loftier concepts of which man is capable now are time-dependent. Charity is really a weaker reflection of a much more powerful love-encompassment which is far beyond any form of charity that man can conceive of as yet. Charity is essential to right-mindedness in the limited sense in which right-mindedness can now be attained. Charity is a way of looking at another as if he had already gone far beyond his actual accomplishments in time. Since his own thinking is faulty he cannot see the Atonement for himself, or he would have no need for charity. The charity which is accorded him is both an acknowledgment that he is weak and a recognition that he could be stronger. ”2.3.19.1-6
「人が今持ちうる高尚な概念でさえほとんど時間に依存している。charityは実際、今まで人間に思いつけるどのような形の愛(charity)を もはるかに越えた、きわめて力強い愛の包括性を、不十分とはいえ反映している。限られた意味において、charityは心の正しい状態に不可欠であり、それによって今その状態に達し得るのである。愛(charity)は他の人を、彼が実際に時間の内でなし遂げたと思っているよりも遙か遠くまで、既に進み終えているかのように見る方法でもある。その人自身の考え方には欠点があるので、自分で贖罪を見ることができずにいる、そうでなければ愛(charity)など必要としないだろう。その人に授けられる愛(charity)は、その人は弱いということを承認すると同時に、彼はより強くあり得るはずだと認めることである。」

“The way in which both of these perceptions are stated clearly implies their dependence on time, making it quite apparent that charity lies within the human limitations, though toward its higher levels. We said before that only revelation transcends time. The miracle, as an expression of true human charity, can only shorten time at most. It must be understood, however, that whenever a man offers a miracle to another, he is shortening the suffering of both. This introduces a correction into the whole record which corrects retroactively as well as progressively.”2.3.20.1-5
「これらの知覚の両方が述べられている仕方を見ると、それは明らかに時間に依存していることを意味し、それは愛(charity)が、より高いレベルに向かっているにせよ、全く人間の限界内にあることを明らかにする。私たちが以前述べたように、ただ啓示だけが時間を超越する。奇跡は、真の人間的愛(charity)の表現として、せいぜい時間を短縮することができるだけである。しかし、ある人が他人に奇跡を提供するときはいつも、その人は両者の苦しみを短くしているのだと理解しなければならない。これがすべての記録[アカシック・レコード]のうちに修正を導入し、それは未来に向かってだけでなく、過去にさかのぼっても修正する。」

この定義は出版された版の定義よりもそれほど奇妙ではない。というのもただその定義がその表面に遙かに大きな意味を持っているから。またそれは一連の段落の意味についての問題を完璧に解決している。この定義が正しいものであるということを疑う理由はほとんど見あたらない。編集者が、どういう訳にせよ、間違いを犯したことも同様である。

この一節の中に多くの小さな改変があることにも注意を払って良いだろう。私たちがしばしば見出したように、それらの改変に正当な理由があるとは思えない。何故科学的な用語の「時空」の代わりにより一般的ではあるが正確ではない「時間と空間」に改変したのだろうか?何故Textの全体にわたって「人(man)」を「あなた(you)」や「あなたやあなたの兄弟達(you and your brothers)」に入れ替えているのか?何故、あちらこちらで切り詰めて、その結果短くなったとはいえ、理解しにくい版を作り上げたのか?

2009年5月16日土曜日

マインドの意味と編集による改変 ACIM読み比べ 2

引き続き The meaning of mind and editing changes by Gene W. Smith を読んでいきます。
マインドのレベルについての議論はACIMを読み込んでいないので、私にはまだ明確な判断がつかないのですが、この次に出てくるCharityについての議論では明らかに編集によって文意が変わっていることが分かります。まずFIP第2版の問題の箇所が示されます。著者は Charity の奇妙な定義に困惑しますが…。

--------------------------------

様々な編集上の判断によって二つの版の間で多様な違いを生ずることになったが、二つの問題が残されている。第一にマインドのレベルについての素材を削除した理由は何かということ。第二に聖霊が神の創造としてではなく、マインドのレベルとして取り扱われたような仕方で書き改められた理由は何かということである。

一つはイエスの導き(guidance)によるのではないかと考えられよう。確かに、多くの人々は出版されたコースがイエスによって公認された最終版であると感じている。しかしもしそうだとすると、HLCからACIMに進むに従って混乱してくる観念の帰結と連関を見いだすのを期待することは出来ないだろう。実際、私たちはこの例においても、また別の事柄においても、厳密な議論を見出したのだが、この信念に強く反対することを以下で考察しようと思う。結論は、私はそれを堅固に立証されたと思っているが、こうなるだろう。出版されたもコースはイエスの編集した作品に相当するものではない。いくつかの編集上の判断は明らかに誤っていたと思われる。

編集上の変更が一般的に導きの結果であるという概念を一旦捨てるならば、理性がそうするように強いるからなのだが、次のことを再び考察しなければならないことになる。この事例やまた別の事例で改変を導いた理由は一体何なのか。このことに関連して、考察すべき重要なことは、これらの改変は特定の思想やコース解釈の傾向を表しているのかどうかということである。言い換えると、それらは幾分編集者の神学的立場の産物であり反映であるのか。これが私たちが考察しなければならない可能性であり、私たちがここまで見てきた一つの例から既に現れてきたものである。

出版されたコースから別の一節を考察しよう。

“Healing is an ability that developed after the separation, before which it was unnecessary. Like all aspects of the belief in space and time, it is temporary. However, as long as time persists, healing is needed as a means of protection. This is because healing rests on charity, and charity is a way of perceiving the perfection of another even if you cannot perceive it in yourself. Most of the loftier concepts of which you are capable now are time-dependent. Charity is really a weaker reflection of a much more powerful love-encompassment that is far beyond any form of charity you can conceive of as yet. Charity is essential to right-mindedness in the limited sense in which it can now be attained.” T-2.V.9
「癒しは分離の後で発達してきた能力であって、それ以前には必要とされていなかった。すべての時間と空間の信念の局面と同様に、それは時間的なものである。しかしながら、時間が存続する限り、癒しは援護の手段として必要である。これが癒しが愛(charity)に基づくという理由であって、たとえあなたがそれを自らの内に知覚しなくても、他者の完全性を知覚するための方法である。あなたの今持ちうる高尚な概念でさえほとんど時間に依存している。charityは実際、今まであなたに思いつけるどのような形の愛(charity)を もはるかに越えた、きわめて力強い愛の包括性を、不十分とはいえ反映している。限られた意味において、charityは心の正しい状態に不可欠であり、それによって今その状態に達し得るのである。」

“Charity is a way of looking at another as if he had already gone far beyond his actual accomplishments in time. Since his own thinking is faulty he cannot see the Atonement for himself, or he would have no need of charity. The charity that is accorded him is both an acknowledgment that he needs help, and a recognition that he will accept it. Both of these perceptions clearly imply their dependence on time, making it apparent that charity still lies within the limitations of this world. I said before that only revelation transcends time. The miracle, as an expression of charity, can only shorten it. It must be understood, however, that whenever you offer a miracle to another, you are shortening the suffering of both of you. This corrects retroactively as well as progressively.” T-2.V.10
「charityは他の人を、彼が実際に時間の内でなし遂げたと思っているよりも遙か遠くまで、既に進み終えているかのように見る方法でもある。その人自身の考え方には欠点があるので、自分で贖罪を見ることができずにいる、そうでなければcharityなど必要としないだろう。その人に授けられるcharityは、その人には助けが必要だと承認すると同時に、そうした助けを受け入れるだろうと認めることである。これらの知覚は両方とも、明らかに時間に依存していることを意味し、それはcharityがまだこの世の限界内にあることを明らかにする。私が以前述べたように、ただ啓示だけが時間を超越する。奇跡は、charityの表現として、それを短縮することができるだけである。しかし、あなたが他人に奇跡を提供するときはいつも、あなたは、あなたがた両者の苦しみを短くしているのだと理解しなければならない。これは未来に向かってだけでなく、過去にさかのぼっても修正する。」

私はこの一節に与えられている普通とは違ったcharityの定義に大変奇妙な印象を受けた。charityという言葉はラテン語のcaritasに由来し、その元の神学的意味において愛という基本徳目を指すものである。特により高い無私の愛、新約聖書に語られている自然を超えた愛徳を意味する。何とも奇妙なのはこの定義がcharityを「あなたがそれを自らの内に知覚しなくても、他者の完全性を知覚するための方法である」のように述べられていることである。charityは自身を愛さないものたちに特有の徳となっている。というのも彼らでさえそれによって他者を愛することが出来るのだから。

ああ、この新しい定義で自分を武装した後で、私たちは直ちに次の段落で困難に陥る。ここで私たちが学ぶのは次のことである。「charityは他の人を、彼が実際に時間の内でなし遂げたと思っているよりも遙か遠くまで、既に進み終えているかのように見る方法でもある」。読み進んでみると、私たちが見いだすのは、charityは他者の不完全性を見過ごすことを含んでいるように見える。しかし自分の不完全性を見過ごすことは何処にも見いだされない。charityの定義を与えられたのに少し奇妙に思える。思考のつながりが完全な明晰さを欠いているし、さらに様々な問題が現れ、そしてその答えを見いだすのは困難である。

マインドの意味と編集による改変 ACIM読み比べ 1

The meaning of mind and editing changesをちょっと翻訳してみます。

この小論で我々はFIP第2版の"A Course in Miracles"をヒュー・リン・ケイシー版(HLC)と比較しようと思う。センテンスの参照の数字は頭から章、節、段落、文を示す。
それではFIP第2版から次の一節を見てゆくことにしよう。

“I have repeatedly emphasized that one level of the mind is not understandable to another. So it is with the ego and the Holy Spirit; with time and eternity. Eternity is an idea of God, so the Holy Spirit understands it perfectly. Time is a belief of the ego, so the lower mind, which is the ego’s domain, accepts it without question. The only aspect of time that is eternal is now.” T-5.III.6
「私が繰り返し強調してきたことは一つの段階のマインドは別のレベルのマインドを理解できないということである。このことはエゴと聖霊にも当てはまる。また時間と永遠にも。永遠は神の考えであり、聖霊はそれを完璧に理解する。時間はエゴの信念であり、それでエゴの領域である低いマインドは疑いもなく時間を受け入れる。永遠である時間の唯一の相[あり方]は”今”である。」

一見してこの節はいささか奇妙である。というのも、聖霊がマインドの一つの段階であることを示唆しているように見えるからである。もしそうなら聖霊はたぶん分離もしくは分裂していなければならない。しかしコースが私たちに伝えていることによれば、聖霊は分離にたいする返答であり、この分離によって私たちは様々な段階に分裂しているのだ(T-5.II.2.5)。それでは聖霊は創造の働きではないから、それは私たちの精神が認識を所有している段階を指しているのだろうか?もしそうなら聖霊は様々な段階に分裂した結果、分離した世界の内に入って来たことになる。それ故それは永遠において自立した意味を持たないのである。ある生徒たちはこの解釈に賛成するけれども、コースはそれを許さない。「神の創造するものは永遠である。聖霊は神の子達と共に留まるだろう。彼らの創造を祝福し、彼らを喜びの光の内に保つために。」(T-5.I.5:6-7)

私たちはこのような仕方で分析と思弁を続けて時間を過ごすことも出来るだろうが、全く違った光がこの問題に投げかけられた。それはTextの初期ヴァージョンの一つであるHLCにこの一節が次のように示されているのを読んだときのことである。

We have repeatedly emphasized that one level of the mind is not understandable to another. So it is with the ego and the Soul; with time and eternity. Eternity is an idea of God, so the Soul understands it perfectly. Time is a belief of the ego, so the lower mind, which is the ego’s domain, accepts it without question. The only aspect of time which is really eternal is now. (5.5.5.1-5)
「私たちが繰り返し強調してきたことは一つの段階のマインドは別のレベルのマインドを理解できないということである。このことはエゴと魂にも当てはまる。また時間と永遠にも。永遠は神の考えであり、魂はそれを完璧に理解する。時間はエゴの信念であり、それでエゴの領域である低いマインドは疑いもなく時間を受け入れる。永遠である時間の唯一の相[あり方]は”今”である。」(5.5.5.1-5)

今やなんと違って見えることだろう。「魂とエゴ」なら「聖霊とエゴ」よりも精神の段階を表す候補者として遙かにふさわしいといえよう。この新しく現れたTextの版は実際マインドの段階についてより詳細な情報を付け加えるので、コースが諸段階について言及することで何を意味しているかということについて、いくつかの理解を得ることができる。

“In our picture of the psyche, there is an unconscious level which properly consists only of the miracle ability, and which should be under my direction. There is also a conscious level, which perceives or is aware of impulses from both the unconscious and the superconscious. Consciousness is thus the level of perception, but not of knowledge. Again, to perceive is not to know.” (3.6.2.3-6)
「魂(psyche)についての私たちの見方では、意識されないレベルがあってそれは実に奇跡を行う能力のみから成り立っている。そしてそれは私の指揮の下にあらねばならない。また別のレベルがあって、それは無意識と超意識の両者からの衝動を知覚し意識している。従って意識は知覚のレベルであって知・認識のそれではない。繰り返すが知覚することは知ることではない。」(3.6.2.3-6)

マインドは無意識、意識、超意識のレベルがあるように見える。ここから魂とマインドの超意識のレベルの間の関係は如何なるものかという問いが生ずる。

マインドが自らにふさわしい機能に戻るのは、知ることを意志するときだけである。このことがマインドを魂に仕える領域に置き、そこでは知覚は無意味である。超意識はこれを意志するマインドのレベルである。

“The mind chose to divide itself when it willed to create both its own levels and the ability to perceive, but it could not entirely separate itself from the Soul because it is from the Soul that it derives its whole power to create. Even in miscreation will is affirming its source, or it would merely cease to be. This is impossible because it is part of the Soul, which God created and which is therefore eternal.” (3.6.7.5-3.6.8.3)
「マインドは分裂することを選択したが、そのことが起きたのはマインドが自らの諸レベルと知覚する能力を共に創造しようと意志したときであった。しかしそれは自らを魂から完全に切り離すことはできなかった。マインドが創造する力を引き出した源は他ならぬその魂であるからだ。誤った創造においてさえ意志はその源を肯定しており、そうでなければそれはただ存在することを止めるだけであっただろう。それは不可能である。それは魂の部分であり、魂を創造したのは神であって、それ故魂は永遠的なものとなったのだから。」(3.6.7.5-3.6.8.3)

超意識のレベルは知ることを意志するマインドであって、それ故それは魂に仕えている。それは神がすべての魂を創造したときに造られた永遠なるイデアもしくは思いである。

コースは私たちにすべてのものがマインドであると伝える。またマインドと霊(ACIM 2nd Edition)、マインドと魂(HLC)の違いについても描写している。このことを理解するためにACIMにあるミラクル・ワーカーの第二の特別な原則に向かおう。

A clear distinction between what is created and what is made is essential. All forms of healing rest on this fundamental correction in level perception.
創造されたものと作られたものを明晰に区別することが不可欠である。癒しの全ての在り方がこの基本的訂正に支えられており、それはレベルの知覚を訂正することである。

HLCではその代わりにこう述べられている。

“Clear distinction between what has been created and what is being created is essential. All forms of correction (or healing) rest on this fundamental correction in level perception.”
創造されて存在し続けているものと創造されてあるものを明晰に区別することが不可欠である。訂正(もしくは癒し)のすべての在り方がこの基本的訂正に支えられており、それはレベルの知覚を訂正することである。

「創造されて存在し続けているものWhat “has been” created」とは何だろうか?HLCには次のように述べられている。

“If it is understood that the mind, which is the only level of creation, cannot create beyond itself, neither type of confusion need occur. The reason only the mind can create is more obvious than may be immediately apparent. The Soul has been created.” (2.3.3.4-2.3.4.2)
「もしそれだけが創造のレベルであるところのマインドが自分を超えて創造することは出来ないと理解するなら、また典型的な混乱も起こる必要はない。マインドが創造能力を持つことの理由は、直接的に明らかであるだろうという以上に分かりきったことである。魂こそが創造されて存在し続けている。」(2.3.3.4-2.3.4.2)

従って魂はマインド、あるいは思いであって、創造されて存在し続けているものである。私たちは次のものを区別してもよいだろう。その創造における神の永遠なる思いを表しているマインドと創造されて存在し続けているもの。創造的・意志的力を持ち、神と共にあって創造するマインドとこの同じ力を誤った創造に用いて、そのため諸レベルへの分裂を引き起こすマインド。一旦諸レベルへの分裂が生ずると、私たちは最も高いレベルとして魂を、魂に仕えるレベルとして超意識的マインド、日常的意識のレベル、意識下のレベルを持ち、最後のものは奇跡の衝動の故郷である。

The meaning of mind and editing changes

HLCとFPI版の編集について書かれた記事ですがネット上でもうキャッシュにしか保管されてないようなのでここに保存しときます。

The meaning of mind and editing changes by Gene W. Smith

In this article we undertake to compare the Second Edition of A Course in Miracles with the Hugh Lynn Cayce (HLC) version of the Text. We adopt a system of referencing a sentence from this version of the Text by means of four numbers separated by periods. The first number is the chapter, the second the section, the third the paragraph within the section, and the fourth the sentence within the paragraph.
Let us begin by looking at the following passage from the Second Edition:
“I have repeatedly emphasized that one level of the mind is not understandable to another. So it is with the ego and the Holy Spirit; with time and eternity. Eternity is an idea of God, so the Holy Spirit understands it perfectly. Time is a belief of the ego, so the lower mind, which is the ego’s domain, accepts it without question. The only aspect of time that is eternal is now.” T-5.III.6
On its face, this passage is a little curious, since it seems to suggest that the Holy Spirit is a level of the mind. To be that, the Holy Spirit would presumably need to have been split off, or dissociated. Yet the Course tells us the Holy Spirit is a response to the separation, which had already dissociated us into levels (T-5.II.2.5). Is the Holy Spirit then not a creation, but a way of referring to that level of our mind which is possessed of knowledge? If so, the Holy Spirit came to be within the world of separation as a result of the splitting into levels, and it therefore has no independent meaning in eternity. While some students favor this interpretation, the Course will not allow it, since “what God creates is eternal. The Holy Spirit will remain with the Sons of God, to bless their creations and keep them in the light of joy.” (T-5.I.5:6-7)
We could go on analyzing and speculating in this fashion for some time, but a completely different light is cast on the problem when we find that in the HLC, an earlier version of the Text, this passage reads as follows:
We have repeatedly emphasized that one level of the mind is not understandable to another. So it is with the ego and the Soul; with time and eternity. Eternity is an idea of God, so the Soul understands it perfectly. Time is a belief of the ego, so the lower mind, which is the ego’s domain, accepts it without question. The only aspect of time which is really eternal is now. (5.5.5.1-5)
How differently the problem now appears! The Soul and the ego are far more plausible as candidates for levels of the mind than the Holy Spirit and the ego. The new version of the Text in fact adds more detail about levels of the mind, allowing some understanding of what the Course means by its references to levels. We have in particular this:
“In our picture of the psyche, there is an unconscious level which properly consists only of the miracle ability, and which should be under my direction. There is also a conscious level, which perceives or is aware of impulses from both the unconscious and the superconscious. Consciousness is thus the level of perception, but not of knowledge. Again, to perceive is not to know.” (3.6.2.3-6)
It seems the mind has an unconscious, a conscious, and a superconscious level. This raises the question as to what the relationship is between the Soul and the superconscious level of the mind.
The mind returns to its proper function only when it wills to know. This places it in the Soul’s service, where perception is meaningless. The superconscious is the level of the mind which wills this.
“The mind chose to divide itself when it willed to create both its own levels and the ability to perceive, but it could not entirely separate itself from the Soul because it is from the Soul that it derives its whole power to create. Even in miscreation will is affirming its source, or it would merely cease to be. This is impossible because it is part of the Soul, which God created and which is therefore eternal.” (3.6.7.5-3.6.8.3)
The superconscious level is mind that wills to know, and hence is still in service of the Soul, which is the eternal Idea or Thought which God created when he created all Souls.
The Course tells us that everything is Mind. However, it also draws a distinction between mind and spirit (in ACIM) or Soul (in HLC). To understand this, let us turn to the second Special Principle of Miracle workers, which in ACIM reads
A clear distinction between what is created and what is made is essential. All forms of healing rest on this fundamental correction in level perception.
In the HLC we find instead:
“Clear distinction between what has been created and what is being created is essential. All forms of correction (or healing) rest on this fundamental correction in level perception.”
What “has been” created? In HLC, we find that the following:
“If it is understood that the mind, which is the only level of creation, cannot create beyond itself, neither type of confusion need occur. The reason only the mind can create is more obvious than may be immediately apparent. The Soul has been created.” (2.3.3.4-2.3.4.2)
The Soul, therefore, is Mind or Thought which has been created; we may distinguish Mind which expresses the Eternal Thought of God of its creation, and which has been created, Mind which has the creative or will power and which creates with God, and mind which uses this same power to miscreate, and hence to bring about a split into levels. Once the split into levels occurs, we have the Soul as the highest level, the superconscious mind as that level which is in service of the Soul, the level of ordinary consciousness, and the level below consciousness, which is the home of the miracle impulse.
In connection with the editing decisions which resulted in the differences between the two versions, we are left with two questions. The first is what were the reasons for removing the material on levels of the mind, and the second is what were the reasons for rewriting the material in such a way that the Holy Spirit seems have been treated as a level of the mind, and not a Creation of God.
One candidate as a reason is guidance from Jesus; indeed, many people feel that the Course as published represents the final version as approved by Jesus. If this is the case, we would not expect to find the sequence and connection of ideas becoming more confused as we pass from HLC to ACIM; the fact that we seem to find exactly that in this example and in the others we will consider below argues strongly against this belief. The result, which I consider to be firmly established, is that we may conclude that the Course as published does not represent the editorial work of Jesus; some of the editorial decisions seem clearly to be mistaken.
Once we abandon, as reason compels us to abandon, the notion that the editorial changes were in general the result of guidance, we are led once again to consider what the reason for the changes in this case and in others might have been; in that connection it is important to consider if the changes represent a particular tendency of thought or of Course interpretation. Are they, in other words, in part the product of and reflective of the theological positions of the editors? That this is a possibility which must be considered emerges already from the one example we have so far looked at.
Let us consider another passage from the published Course.
“Healing is an ability that developed after the separation, before which it was unnecessary. Like all aspects of the belief in space and time, it is temporary. However, as long as time persists, healing is needed as a means of protection. This is because healing rests on charity, and charity is a way of perceiving the perfection of another even if you cannot perceive it in yourself. Most of the loftier concepts of which you are capable now are time-dependent. Charity is really a weaker reflection of a much more powerful love-encompassment that is far beyond any form of charity you can conceive of as yet. Charity is essential to right-mindedness in the limited sense in which it can now be attained.
“Charity is a way of looking at another as if he had already gone far beyond his actual accomplishments in time. Since his own thinking is faulty he cannot see the Atonement for himself, or he would have no need of charity. The charity that is accorded him is both an acknowledgment that he needs help, and a recognition that he will accept it. Both of these perceptions clearly imply their dependence on time, making it apparent that charity still lies within the limitations of this world. I said before that only revelation transcends time. The miracle, as an expression of charity, can only shorten it. It must be understood, however, that whenever you offer a miracle to another, you are shortening the suffering of both of you. This corrects retroactively as well as progressively.” T-2.V.9-10
I was very much struck by the unusual definition of charity given in this passage. The word “charity” comes from the Latin caritas, and in its original and theological sense it refers to the cardinal virtue of love; specifically, the higher, selfless, “supernatural” virtue of love spoken of in the New Testament. What is so striking about this definition is that it defines charity in such a way that it revolves around perceiving others differently than ourselves; “charity is a way of perceiving the perfection of another even if you cannot perceive it in yourself”. Charity becomes the special virtue of those who do not love themselves; for even so they are able through it to love others.
Alas, after arming ourselves with this new definition, we immediately find ourselves in trouble in the next paragraph. Here we learn that “Charity is a way of looking at another as if he had already gone far beyond his actual accomplishments in time.” As we read on, we find that charity seems to involve looking past the imperfections of another, but we find nothing about looking past our own imperfections. Given the definition of charity, this seems a little peculiar; the sequence of thought falls short of entire clarity, and raises questions for which answers seem hard to find.
Once again, sense returns to a confused situation when we find that this passage reads differently in the Hugh Lynn Cayce version of the Text:
“Healing is an ability lent to man after the separation, before which it was completely unnecessary. Like all aspects of the space-time belief, healing ability is temporary. However, as long as time persists, healing is needed as a means for human protection. This is because healing rests on charity, and charity is a way of perceiving the perfection of another even if he cannot perceive it himself.
“Most of the loftier concepts of which man is capable now are time-dependent. Charity is really a weaker reflection of a much more powerful love-encompassment which is far beyond any form of charity that man can conceive of as yet. Charity is essential to right-mindedness in the limited sense in which right-mindedness can now be attained. Charity is a way of looking at another as if he had already gone far beyond his actual accomplishments in time. Since his own thinking is faulty he cannot see the Atonement for himself, or he would have no need for charity. The charity which is accorded him is both an acknowledgment that he is weak and a recognition that he could be stronger.
“The way in which both of these perceptions are stated clearly implies their dependence on time, making it quite apparent that charity lies within the human limitations, though toward its higher levels. We said before that only revelation transcends time. The miracle, as an expression of true human charity, can only shorten time at most. It must be understood, however, that whenever a man offers a miracle to another, he is shortening the suffering of both. This introduces a correction into the whole record which corrects retroactively as well as progressively.” (2.3.18.3-2.3.20.4)
This definition is much less striking than the one given in the published version, for the simple reason that it makes a great deal more sense on its face. It also completely solves the problem of making sense of the subsequent paragraphs. There seems little reason to doubt that this definition is the correct one, and that the editors, for whatever reason, made a mistake.
We might also take note of the many small changes throughout this passage. As we so often find, there seems to be no good reason for them. Why change the scientific “space-time” to the more popular but less accurate “space and time”? Why the wholesale replacement throughout the Text of “man” with “you” or “you and your brothers”? Why was it trimmed here and there, since the result is a version somewhat less comprehensible, albeit shorter?
Consider now the following sentence from the Second Edition: “‘Lead us not into temptation’ means ‘Recognize your errors and choose to abandon them by following my guidance’.” (T-1.III.4:7) This is undeniably a little cryptic; while we expect to find a reinterpretation, we also expect to be able to draw the connection between the original statement and its reinterpreted form. The connection between being led into temptation and following guidance is clear enough, but where does the recognition of errors enter the picture?
In HLC we have instead the following, from Miracle Principle 36: “‘Lead us not into temptation’ means ‘guide us out of our own errors.’ ‘Take up thy cross and follow me’ means `recognize your errors and choose to abandon them by following my guidance.’” The connection between “lead us not into temptation” and “guide us out of our errors” is evident. “Take up thy cross and follow me” invites us onto the path of the Atonement even if the way be hard; “recognize your errors and choose to abandon them by following my guidance” does the same, since recognizing errors and choosing to abandon them can be experienced as a hard thing. What has been removed is any implication of sacrifice; rather than clinging to the old rugged cross, we are invited to abandon our errors and our foolish journeys to crucifixion. Again, clarity seems to have replaced confusion.
Let us consider yet another example from the Second Edition, this time from the Miracle Principles. Miracle principle 38 tells us that “The Holy Spirit is the mechanism of miracles. He recognizes both God’s creations and your illusions. He separates the true from the false by His ability to perceive totally rather than selectively.” This seems both clear and unproblematic, unless one goes back a bit and tries to connect it to miracle principle 5, which has it that “Miracles are habits, and should be involuntary. They should not be under conscious control. Consciously selected miracles can be misguided.”
How, one might ask, can a miracle possibly be misguided if the mechanism of miracles is the Holy Spirit - our perfect Guide? Once again we could search and study and attempt to find an answer which reconciles the seeming contradiction, but once again a completely new light is cast on the matter by the discovery that miracle principle 39 in HLC, which corresponds to miracle principle 38 in ACIM, reads as follows:
The spiritual eye is the mechanism of miracles because what it perceives is true. It perceives both the Creations of God and the creations of man. Among the creations of man, it can also separate the true from the false by its ability to perceive totally, rather than selectively. It thus becomes the proper instrument for reality testing, which always involves the necessary distinction between the false and the true.
I’ve put “spiritual eye” in lower case in the above paragraph, and put into lower case as well the references to it as “it”. This reflects my opinion, based on how it is used in HLC, that the editors of HLC erred in their belief, reflected in a footnote, that “spiritual eye” was synonymous with “Holy Spirit”. I think it is clear that it is not; and the fact that it is not a reference to the Holy Spirit is what allows us to make sense of passages like this one.
Indicative of the problems associated with identifying the spiritual eye with the Holy Spirit (an identification which is in fact not consistently carried out in ACIM, for the simple reason that attempting to do so will not work) is the following:
“When the ‘lies of the serpent’ were introduced, they were specifically called ‘lies’ because they are not true. When man listened, all he heard was untruth. He does not have to continue to believe what is not true unless he chooses to do so. All of his miscreations can literally disappear in ‘the twinkling of an eye,’ because they are merely visual misperceptions. Man’s spiritual eye can sleep, but a sleeping eye can still see. What is seen in dreams seems to be very real. The Bible mentions that ‘a deep sleep fell upon Adam,’ and nowhere is there any reference to his waking up.”
Obviously “Man’s spiritual eye can sleep” cannot be reconciled with any attempt to identify the spiritual eye with the Holy Spirit, and “a sleeping eye can still see” only compounds the problem. The identification of the spiritual eye with the Holy Spirit is therefore a mistake, and it is the spiritual eye (which from the passage above clearly belongs in the lower case, as it is capable of seeing the dream in place of what is real) which is the true mechanism of miracles. This in fact connects with our first example; the unconscious mind is the level of miracles, whereas miracle principle 46 tells us:
“The Holy Spirit is the highest communication medium. Miracles do not involve this type of communication, because they are temporary communication devices. When you return to your original form of communication with God by direct revelation, the need for miracles is over.”
This suggests the Holy Spirit has more to do with revelation than with miracles. The distinction is even clearer if we turn to miracle principle 49 in HLC, where we find instead:
“The Holy Spirit is the Highest Communication Medium. Miracles do not involve this type of communication because they are temporary communication devices. When man returns to his original form of communication with God, the need for miracles is over. The Holy Spirit mediates higher to lower communication, keeping the direct channel from God to man open for revelation. Revelation is not reciprocal. It is always from God to man. The miracle is reciprocal because it involves equality.”
The Holy Spirit seems to be not the mechanism for miracles, but the motive and inspiration behind them; miracles are a response from mind below the level of consciousness to the Holy Spirit’s inspiration from above. In this connection we may consider the following passage:
“Healing is not creating; it is reparation. The Holy Spirit promotes healing by looking beyond it to what the children of God were before healing was needed, and will be when they have been healed. This alteration of the time sequence should be quite familiar, because it is very similar to the shift in the perception of time that the miracle introduces. The Holy Spirit is the motivation for miracle-mindedness; the decision to heal the separation by letting it go. Your will is still in you because God placed it in your mind, and although you can keep it asleep you cannot obliterate it.” T-5.II.1:1-5
This leads us directly to our final example. As we sometimes find, the word “will” in HLC, and presumably in the Urtext, has been replaced by another. Instead of “the will to heal” we find “the decision to heal”. This leads to a problem in the sentence which follows, where “Your will” has no apparent referent; it seems perhaps to refer to one’s power of free will in general terms. The version in ACIM goes on to say “God Himself keeps your will alive by transmitting it from His Mind to yours as long as there is time. The miracle itself is a reflection of this union of Will between Father and Son.” This makes it clear that “will” must mean our true will, which we hold in union with the Father, but the connection with the discussion of healing is still not entirely clear. What we find instead in HLC is the following:
The Holy Spirit is the motivation for miracle-mindedness; the will to heal the separation by letting it go. This will is in you because God placed it in your mind, and although you can keep it asleep, you cannot obliterate it.
God Himself keeps this will alive by transmitting it from His Mind to yours as long as there is time. It is partly His and partly yours. The miracle itself is just this fusion or union of will between Father and Son.
Once again the published version of the Course is revealed to be less divinely inspired than we may have thought, as the obscurity of ACIM gives way to the clairity of the earlier HLC. We are led again to the conclusion that the editorial work of ACIM reflects the human fallibility of its editors, and that the notion that it represents the Course in its final and perfected form is not sustainable.

2009年5月14日木曜日

ACIM Workbook P1.L54.4.3

Workbook は Text に比べると Urtext と FIP 2nd Edition の間に大きな違いはありませんが、それでもよく見ると細かい編集の跡が見られます。ここで取り上げるのはLesson54の一節です。上が FIP 2nd 下がUrtext。下線部が変わっているところです。

Everything I think or say or do teaches all the universe.

Everything I think or say or do touches all the universe.

前者だと「私が考え、語り、行うことは、森羅万象に教えている。」

後者であれば「私が考え、語り、行うことは、森羅万象に触れている。」

パラグラフ全体を見てみましょう。

(19) I am not alone in experiencing the effects of my thoughts.

I am alone in nothing. Everything I think or say or do teaches all the universe. A Son of God cannot think or speak or act in vain. He cannot be alone in anything. It is therefore in my power to change every mind along with mine, for mine is the power of God.

文脈から見ると人間の思考・語ること・行うことが、ありとあらゆるもの、すべての存在に影響を与えており、他人・他のものから切り離されて存在することはあり得ないということですね。仏教思想でいう一即一切・一切即一です。だからこそ自分の思いを変えることによって世界そのものを変えることができる、神の創造力を人間は持っているのだということでしょう。では teaches と touches どちらを取るかといえば、やはり Urtext のtouches でしょう。teaches ではまるで自分が正しくて世界が間違っているかのようです。学習者の立場でteaches はスケールが大きすぎます。ヘレンのノートでも touches です。おそらく単なる編集ミスでしょう。



2009年5月13日水曜日

ACIM ヘレンの速記ノートとUr-Textのe-Text版

ヘレンの速記ノートとUr-Textのe-Text版(PDF)も公開されました。

http://www.miraclesinactionpress.com/dthomp74/2008/index.htm

Corrected HLC と Ur-Textの書籍版のPDFもありますね。(5と6のリンク)

わたしは昨年上の書籍を注文しましたが、校正に時間がかかったためかまだ手に入れてません。PDFも公開されているので3次元の世界に物質化した本を手に入れる必要性もそれほど感じられなくなりましたが、もうそろそろ出来上がりそうだと連絡がありました。High Resolution Notes facsimile manuscript images (速記ノートの高解像度画像ファイル)を忍耐強く待ち続けたお礼にサービスしてくれるというのでもうしばらく待つことにします。

下のサイトにもノートが置いてあります。ACIM Ur-Handscriptですね。上のサイトのファイルとは編集の仕方が少し異なっています。

http://www.miraclescenter.us/jcim.htm