2009年6月29日月曜日

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 17/17

16. When we and the entire world have attained true perception, God Himself will take the final step and lift us home

16.1. Eventually, we will collectively devote ourselves to applying forgiveness and returning home.

次第に私たちは集合的に赦しを行って故郷に帰ることに自らを捧げるだろう。

16.2. The Second Coming of Christ is when the world collectively awakens to the Christ, the Self we share.

キリストの再来は世界[の人々]が集合的にキリスト、すなわち私たちが共有する自己に目覚めるときである。

16.3. The Last Judgment is a process by which we judge all past thoughts and retain only the pure.

最後の審判は、私たちがすべての過去の思いを審査して、純粋なもののみを保つ過程である。

16.4. When we are perfectly healed we are ready for God to take the final step. In that step we remember God and our true Identity.

私たちが完全に癒されるとき、神が最後の段階を取る準備が出来る。その段階で私たちは神と私たちの真の同一性を思い出す。

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 16/17

15. With forgiveness as our practice, we journey toward the goal of true perception.

15.1. True perception is a different mode of perception which looks past bodies to the light of Christ in everyone and everything.

真の知覚は、身体を越えてすべての人やものごとの中にあるキリストの光の方に向くことである。

15.2. True perception looks on the real world, which is composed of the holiness in all minds and the loving thoughts in those minds.

真の知覚は真実の世界の上で見る。それはすべての心の神聖さとそれらの心の中にある愛する思いとからなる。

15.3. Looking with true perception on the real world is the happiest experience we can have here. It is the goal of the spiritual journey.

真実の世界の上で真の知覚で見ることは私たちがここで持つことの出来る最も幸福な経験である。それは精神的な旅の終着点である。

15.4. The spiritual journey is the gradual making of a single choice, which slowly restores us to our right mind.

精神的な旅とは徐々にただ一つの選択を行うことであり、それは私たちをゆっくりと正しい心へと復帰させる。

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 15/17

14. Forgiveness also undoes the blocks that separate us from others, allowing us to experience the fact that we are one.

14.1. Forgiveness wipes away that which maintains our sense of separateness from others.

赦しは私たちの他者からの分離感を維持しているものをぬぐい去る。

14.2. Forgiveness looks past differences and reveals our underlying sameness.

赦しは相違を越えて見て、私たちの隠された同等性を明らかにする。

14.3. Forgiveness lifts us into holy encounters, in which two people set aside what separates them and experience salvation together.

赦しは私たちを聖なる邂逅へと高め、その中でふたりの人は彼らを分離しているものを無視して、共に救いを体験する。

14.4. The holy relationship is a gradual reversal of the special relationship, in which two people slowly realize their sameness.

聖なる関係は特別な関係の緩やかな反転であり、その中でふたりの人はゆっくりとお互いの同等性を理解する。

14.5. When two or more people join in a truly common goal, holiness enters the relationship at a deep level and makes it a holy relationship.

ふたりかそれ以上の人が本当に共通の目的で結びつくとき、神聖さが深いレベルでその関係の中に入り込み、それを聖なる関係にする。

14.6. The relationship will go on a journey, as the holiness that entered it slowly rises and transforms the relationship.

その関係は旅に出るだろう。その中に入った神聖さがゆっくりとその関係を高め転換させるので。

14.7. As the relationship's holiness rises to the surface, it will then reach out beyond the two people. They will be given a joint special function.

その関係の神聖さが表面化するとき、それはふたりの人を越えて拡がるだろう。彼らは一つに結びついた特別な機能・役目を与えられるだろう。

14.8. The journey to God is not a lonely journey. Through joining with others we discover our own wholeness and clear the way for uniting with God.

神への旅は孤独な旅ではない。他者と結びつくことによって、私たちは自分自身の全体性を発見し、神と一つになる準備をする。

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 14/17

13. Extending forgiveness to others reveals to us that we too are forgiven. This becomes our one function.

13.1. Forgiveness releases us from our fixation on our separate self and allows our love to flow out to the world.

赦しは、私たちの分離した自己への固着から私たちを解放し、私たちの愛を世界にあふれさせる。

13.2. We first allow forgiving perception into our minds and then extend this perception to others.

私たちはまず第一に赦しの知覚が自らの心の中へ入るのを許し、その後この知覚を他者に拡張する。

13.3. Extending forgiveness to others heals them in mind and body.

他者へと拡張する赦しは彼らを心身ともに癒す。

13.4. Extending forgiveness to others is a psychological device for convincing us of our innocence.

他者へと拡張する赦しは私たちに自らの無垢を確信させる心理学的な手段である。

13.5. Extension will become our only function. The Holy Spirit will give us a special form of this called our special function.

拡張は私たちの唯一の役割となるだろう。聖霊は私たちに私たちの特別な役割と呼ばれるこの役割の特別な形式を与えてくれるだろう。

2009年6月26日金曜日

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 13/17

12. We heal our perception by forgiving the world for what it did not do.

12.1. Forgiveness is the answer to our separated condition.

赦しは私たちの分離状態に対する答えである。

12.2. Forgiveness is the Course's unique and original message, yet is also the heart of the Holy Spirit's message to humanity.

赦しはコースのユニークで独創的なメッセージであるが、それはまた聖霊の人類に対するメッセージの核心でもある。

12.3. Conventional forgiveness, in which we forgive another for his sin against us, is not real forgiveness.

私たちが自ら対する他人の罪を赦す従来の赦しは真の赦しではない。

12.4. Real forgiveness is a shift in perception, in which we let go of the perception that a sin occurred.

真の赦しは知覚の転換であって、罪が生じたという知覚を手放すものである。

12.5. The Course's thought system is one big rationale for the idea that sin is unreal and that forgiveness is justified.

コースの思惟体系は、罪は非実在的で、赦しが正当であるという考え方を支持するきわめて合理的なものである。

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 12/17

11. Changing our minds means allowing the Holy Spirit to heal our perception.

11.1. To awaken in Heaven all we need is a change of perception.

天国で目覚めるために私たちがしなければならないのは知覚を変えることのみである。

11.2. Projection makes perception.

投影が知覚をつくる。

11.3. Step one: Identify the cause of your pain as your own perception, and bring this illusion to the light of truth.

第一段階:あなたの苦痛の原因があなた自身の知覚であることを同定しなさい。そしてこの錯覚を真理の光の下に置きなさい。

11.4. Step two: Let go of your perception; have a little willingness for the Holy Spirit to remove it and replace it with truth.

第二段階:知覚を手放しなさい。聖霊がそれを取り除き、真理に置き換えてくれることを少しでいいから意志しなさい。

11.5. Step three: The Holy Spirit will replace your perception with His; He will give your mind a miracle.

第三段階:聖霊はあなたの知覚を彼のものと取り替えてくれるでしょう。彼はあなたの心に奇跡を与えるでしょう。

2009年6月25日木曜日

ロバート・ペリー "Sings" の書評

Amazon に書いた書評です。これまでたくさんのACIMの解説本を書いてきた著者ですが、これは著者にとって直接ACIMの解説を目指していない初めての本です。しかしACIMに関わってきた人生経験の中で生じた共時性が話題になるので、いろいろ面白いエピソードが出てきます。ACIMを離れても、この本は共時性についての驚異的なガイドブックであり、もしかしたら人生を一変させる力を秘めているかもしれません。この本を読んで自分にも過去に強烈な体験があったことを思い出しました。

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Signs: A New Approach to Coincidence, Synchronicity, Guidance, Life Purpose, and God's Plan

共時性についての驚異的なガイドブック

著者ロバート・ペリーはACIMのある団体の代表であるが、この本はACIMそのものではなく、
ユング以来認知されることになった共時性(Synchronicity)、意味ある偶然の一致
(Coincidence)についてのガイドブックである。彼はこの現象をCMPE
(Conjunctions of Meaningfully Parallel Events)と呼んで、独自の定義を与えている。
スピリチュアルな道の探求者であれば、自己を超越した存在からのアドバイスが欲しいと
思うこともあるだろうが、どうすればよいか困惑するばかりではないだろうか?
この本はCMPEを解釈することでそのような導きが得られることを示している。
章ごとに実際に著者の体験したCMPEの実例と解釈が示されていて、
それを読むだけでも興味深い。この本自体もCMPEのガイダンスに基づいて書かれている。
例えば How to を扱う部分をペリーは最初書くのをためらっていた。
それは読者が間違った解釈をして人生を狂わせてしまうのを恐れたからであるが、
CMPEが起こり彼は自らの方針を変えることになった。
この本の前半は彼の提示するCMPEを使いこなすためのガイドブックとなっているが、
後半はCMPE自身の持つ性格についての踏み込んだ探求の過程が示されている。
特に興味深かったのが第8章の「サインは未来を予言できるか?」である。
その中にある1つの事例の概略をご覧いただきたい。
ペリーはACIMの書記者であるヘレン・シャクマンについて書かれた本Absence from Felicityを手に入れ、
彼女が「死海文書」の発見されたクムランの洞窟を訪れて、そこが8年前に「God is」と
記された巻物を白昼夢で見たその場所であったことに気づき、涙を流したとのエピソードを読んだ。
その翌日(1991.10.2)彼はスーパーマーケットで、U.S.News の最新版の記事を見て、
一部の学者だけが見ることが出来た「死海文書」の非公開の部分が劇的な仕方で公になったことを知った。
それまで40年間「守秘ルール」によってごく一部の学者しか見ることが出来ず、
それは「アカデミック・スキャンダル」とさえ言われていた。
しかし「守秘ルール」の範囲外の図書館の中で非公開の資料のすべての写真が発見され、
それが公開されることによって「守秘ルール」自体が無効化されたのであった。
その後帰宅したペリーは先のヘレンについて書かれた本を再読し、
そこにまだ公にされていない資料がたくさん含まれているのを見て、
何故それが秘匿されているのか疑問に思っていた。そのとき友人から電話があり、
その本の中にあるヘレンが受け取った「イエスの復活に関する特別なメッセージ」に
注意を向けさせられた。その本の著者[ワプニク]はこのメッセージはヘレンの恐れによって
ゆがめられていると主張しているが、友人はそれに同意できないと言ったのだった。
このイエスの復活について与えられたメッセージをペリーは既に知っていたのだが、
この著者によって発表するのを禁じられていた。そして彼はこの著者にとって不都合な
資料が隠匿されているのではないかと疑った。そしてその時気づいたのだが、このメッセージが与えられた日付は
1976.10.2でちょうど15年前の出来事であり、3つの出来事からなるCMPEが生じていたのである。
ここからペリーはACIMにも未公開の資料があるのではと考え、ACIMの初期メンバーに問い合わせるが、
その存在は否定されてしまう。
しかし2000年、ACIMにも「死海文書」と同じような出来事が発生し、
2つの未公開資料が無名の人々によってインターネット上で公開され、
CMPEが未来の出来事にまで及んでいることが判明するのであった。
最後の章を書き終えて、ペリーはCMPEが神に由来することを示してくれるように祈り、
そして驚異的なCMPEが生じたことをエピローグに記している。これまでCMPEにおいて
発生する平行事象は平均して8個前後であったが、最後に与えられたのは32もの平行事象を
含んだものであった。そして、それまで自分の本についてのアドバイスだと考えていた
サイン[CMPE]が、実はサインが自らについて希望することを示しているのに気づくのであった。
サイン自体が人々のもとに届いて人々の人生を一変させることを望み、
そうするためにペリーをしてサインについての本を書かせたのであると。

2009年6月23日火曜日

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 11/17

10. The Holy Spirit's message is that we never sinned, never changed ourselves. We need only change our mind.

10.1. The guilt and pain produced by the ego is stored in an unconscious level of mind which also contains our call for God's Love and help.

エゴによって生み出された罪悪感と苦痛は心の無意識のレベルに貯蔵されているが、それはまた神の愛と助けへの呼びかけを含んでいる。

10.2. The Holy Spirit's answer to our guilt is that we did not do it, that we are still as God created us, because the separation never occurred.

私たちの罪悪感に対する聖霊の答えはこうである。私たちはそれを行っていなくて、今なお神が創造されたままの状態を保っている。というのも分離は決して起こってはいないから。

10.3. The journey home is an illusion. We need not purify ourselves or make sacrifices. Instead, we can wake up at any time we choose.

故郷に帰る旅は錯覚である。私たちは自らを浄化する必要もなく、犠牲を払う必要もない。そうではなくて、私たちはいつでも好きな時間に目覚めることが出来る。

10.4. The Holy instant is a moment when this is realized, applied, a moment of doing nothing.

聖なる瞬間はこのことが理解され、適用された瞬間、何もなさない瞬間である。

10.5. The miracle is free deliverance from the imprisonment of the human condition. It is our right, because we never sinned.

奇跡とは人間的条件に監禁されていることからの自由な救出[釈放]である。それは私たちの権利である。私たちは決して罪を犯していないのだから。

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 10/17

9. We have lost touch with reality and so need the Holy Spirit's help to be restored to sanity.

9.1. God created the Holy Spirit to bridge the gap in communication between Him and His children.

神は御自身と御子の間の意思疎通を妨げる断絶を埋めるために聖霊を創造した。

9.2. The Holy Spirit's function is to heal our minds by leading us into a thought system that reflects reality. This is how He guides us home.

聖霊の役目は実在を反映する思惟体系に私たちを導くことによって、私たちの心を癒すことである。

9.3. The Holy Spirit bridges the distance between reality and illusion. By seeing our illusions in light of reality, He places them in true perspective.

聖霊は実在と錯覚の間にある距離を橋渡しする。実在の光に於いて私たちの錯覚を見ることによって、彼はそれらの錯覚を真の観点の中に置く。

9.4. All that we made for ego He takes and uses for our awakening.

聖霊は、私たちがエゴのためにするすべてを手に取って、それを私たちの目覚めのために用いる。

9.5. We accept Him as our Teacher by resigning as our own teacher.

私たちは、自分自身が教師であるのを辞任することによって、聖霊を私たちの教師として受け入れる。。

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 9/17

8. Our “solution” is an attack and so, like the original problem, is an attack on ourselves.

8.1. Beneath the victim level is the ego proper, which is pure, unprovoked attack.

犠牲者のレベルに隠れているエゴに固有のものがある。それは純粋な、挑発に基づかない攻撃である。

8.2. The victim level is an excuse to attack, produced by projecting our own attack outward.

犠牲者のレベルは攻撃の弁解であり、自分自身の攻撃心を外側に投影することによって生まれる。

8.3. The ego promises that attack will get us safety and happiness. This simply tricks us into accumulating guilt, to which it is attracted.

エゴは攻撃が私たちを安全にし、幸福にすると約束する。これは単に私たちを欺いて罪悪感を募らさせるもので、それは罪悪感に魅了されている。

8.4. The ego promises that getting will fulfill us and defending will protect us. This tricks us into accumulating lack and vulnerability.

エゴは獲得が私たちを満たし、防御が私たちを守ると約束する。これは私たちを欺いて欠乏と脆弱さを募らさせる。

8.5. The ego promises us joy through bodily pleasure. This tricks us into making separation real.

エゴは私たちに身体的快楽によっる喜びを約束する。これは私たちを欺いて分離を実在的にさせる。

8.6. The special relationship is the biggest false promise of all, the one that motivates us to pursue all of the ego's false promises.

特別な関係はその中でも最も大きく間違った約束[契約]で、それはエゴの間違った契約のすべてを追求するように私たちを刺激する。

8.7. Through our normal daily activities the ego is carrying out its ancient attack on God.

私たちの通常の日常的な諸活動を通して、エゴは神へのいにしえから続く攻撃を遂行している。

8.8. All that the ego does is really designed to attack us, kill us and send us to hell.

エゴの行うすべては本当に我々を攻撃し、殺し、地獄に送ることをもくろんでいる。

2009年6月22日月曜日

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 8/17

7. Our search for happiness is actually an expression of resentment and a quest for vengeance on the past.

7.1. Underneath our conscious face of innocent is the victim level, a place in us where we are enraged over what we think the world has done to us.

私たちの意識にのぼる無垢な顔の下に、犠牲者のレベルがある。それは私たちの内なる場所で、そこで私たちは世界が自分にしたと思っていることに激怒している。

7.2. The victim's primary perception is that other people are sinful.

犠牲者の持つ主要な知覚は他人が罪深いということである。

7.3. In this place we believe that past injustices have given us the right to resentment, restitution, and revenge.

この場所で私たちが信じるのは過去の不正行為が私たちに怨恨[ルサンチマン]、損害賠償、復讐の権利を与えるということだ。

7.4. Our attempt to rearrange the world is based on anger, resentment, grievances.

世界に復讐しようとする私たちの試みは怒り、怨恨、憤りに基づいている。

7.5. In our giving and in our suffering we constantly send the message, “I suffered because of you. Therefore, you owe me.”

私たちが与えることや被害を被ることにおいて、私たちが絶えず送っているメッセージがある。それは「私はあなたのせいで被害を被った。したがってあなたは私に借りがある」ということだ。

7.6. We seek vengeance through subtle attempts to re-enact the past and reverse past “injustices” against us.

私たちは、過去を再演し、自らになされた過去の“不正行為”をひっくり返すという微妙な試みによって復讐しようとする。

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 7/17

6. Our solution: acquire happiness by rearranging our external world.

6.1. Our conscious self-image is “the face of innocence,” that of a good self trying to make its way through an unjust world.

私たちの意識する自己イメージは“罪のない[無垢な]顔”をしていて、それは不正な世界を通って進んでゆこうと試みる良き自己の顔である。

6.2. We respond to the world’s attacks by defending ourselves.

私たちは自分自身を守ることで、世界の攻撃に対処する。

6.3. We attempt to fill our needs with external things, situations, and events, based on the belief that we are inherently lacking.

私たちは外的な事物、状況、出来事で自らの必要を満たそうと試みるが、それは自分が本来的に欠乏状態にあるとの信念に基づいている。

6.4. A major need we seek to satisfy is the need to feel innocent.

私たちが満足するために追求する主要な必要は、無罪[無垢]であると感じるための必要である。

6.5. Another major need is the need to feel special.

もう一つの主要な必要は特別であると感じる必要である。

6.6. In our search for happiness, the body is both a means and an end.

私たちの幸福追求において、身体は手段でもあり目的でもある。

6.7. The crowning gift we seek, which incorporates all of the other gifts, is special love.

私たちの探す最高の贈り物は、他の贈り物すべてを一体化したものであって、特別な愛である。

6.8. All of our seeking attempts to get something from the world, for which we generally must pay something back.

世界から何かを獲得しようとする私たちの探し求める試みはすべて、概してそれに対する代償を要する。

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 6/17

5. We then projected the cause of our suffering onto the world, producing the illusion that it had sinned against us and had robbed us of our happiness.

5.1. A law of mind is that mind causes its own experience.

心の法則とは心が自分自身の経験を引き起こすことである。

5.2. Projection is the dynamic whereby causation is thrown outward: what our mind has caused now seems thrust upon us from without.

投影とは因果関係を外に投げかける原動力である。すなわち、私たちの心が引き起こしているものが外側から私たちを追いやっているように見えることである。

5.3. Projection is motivated by the desire to get rid of our guilt, but its deeper motivation is the desire to make us powerless to change our beliefs.

投影は私たちの罪を取り除きたいという欲求によって動機づけられているが、そのより深い動機は自分の信念を変えることに対して自分を弱体化する欲求である。

5.4. Projection produces a world that seems to have enormous power over us.

投影は私たちに莫大な力を及ぼすように見える世界を産出する。

5.5. Through projection, our self-imposed pain appears to come from an attacking world.

投影を通して、私たちが自らに課した苦痛が、攻撃する世界から来るように思える。

5.6. Our guilt, projected outward, has produced a punishing world.

私たちの罪悪感が、外的に投影されて、苦痛をもたらす世界を産出する。

5.7. Our primary experience of this world is that it attacks us in manifold ways, that it has done us wrong, that it has taken our happiness from us.

この世界で私たちが持つ最初の経験は、世界が様々な仕方で私たちを攻撃し、害し、幸福を奪い去ることである。

2009年6月20日土曜日

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 5/17

4. Yet we believed we had really done it. We thought we had sinned and had thereby thrown our happiness away forever.

4.1. We thought that we had separated ourselves from all that we loved and consequently experienced a state of lack.

私たちは自分自身を愛する者から分離したと思ったので、その結果、欠乏の状態を経験した。

4.2. We thought that we had sinned against God, that we had launched a real attack which caused real destruction.

私たちは、自分が神に逆らって罪を犯し、実在的な破壊を引き起こす実在的な攻撃に乗り出した、と思った。

4.3. The result of sin was a massive sense of guilt, which we denied and so pushed into the unconscious.

罪の結果は重々しい罪悪感であって、それを私たちは否定し、そうすることで無意識に閉じ込める。

4.4. Guilt says that we deserve punishment. This belief is the source of all of our suffering.

罪悪感は私たちが罰に値すると主張する。この信念は私たちの苦しみすべての根源である。

4.5. We project our belief that we deserve punishment onto God and so perceive a punitive, fearful God.

私たちは、罪に値するという自分の信念を神へと投影し、そうして懲罰的な恐ろしい神を知覚する。

4.6. Guild, then, gives rise to fear, which really is the expectation of punishment. Fear is the dominant emotion of this world.

したがって罪悪感は恐れを引き起こし、それは本当に罰の予感となる。恐れはこの世界で最も有力な感情である。

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 4/17

3. But the separation occurred only in our minds; in reality it never happened.

3.1. The separation had no effect, for nothing can change the Will of God.

分離は全く効果を持たない。というのも神の意志を変えることが出来るものは何もないから。

3.2. We did not actually separate; we merely withdrew our awareness from reality into a private mental state.

私たちは実際に分離したわけではない。単に自分の意識を実在から個的な精神状態に引き込めただけだ。

3.3. The world is not an objective reality; it is only a dream, a projection of our belief in separation.

世界は客観的な実在性ではない。それは単なる夢、私たちが分離を信じることの投影である。

3.4. We are not who we think we are; we are the Sons of God with amnesia.

私たちは、自分がこれだと思っているような者ではない。私たちは記憶喪失の神の子である。

3.5. We are not here in this world or in these bodies. We are in Heaven dreaming that we are here.

私たちは世界のなかのここに、すなわちこれらの体のなかにいるのではない。私たちは天国にいて、ここにいる夢を見ている。

3.6. The instant the separation seemed to occur, God created the Holy Spirit, Who awakened us that same instant. We are now only reviewing a journey that is over.

分離が生じたように見えた瞬間に、神は聖霊を創造し、それはその同じ瞬間に私たちを目覚めさせた。私たちは、今、終わってしまった旅を回顧しているだけである。

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 3/17

2. We tried to attack reality, to separate from it, thus making a separate identity – the ego – and the world of space and time.

2.1. We tried to separate, motivated by a desire to elevate ourselves above our brothers and God.

私たちは、兄弟達や神よりも自分を高めようという願望に動機づけられて、分離しようと試みた。

2.2. The ego is the belief behind the separation; it is our core self-concept which says we are separate, autonomous beings.

エゴは分離の背後に潜む信念である。それは私たちの中核的な自己概念であって、私たちは分離していて、自律的な存在であると主張する。

2.3. When we tried to separate, we seemed to shatter reality into countless separate fragments.

分離しようと試みたとき、私たちは実在を数え切れないほどの分離した破片へと粉砕するように思われた。

2.4. We made the world by selecting and organizing the fragments.

私たちはその破片を選び組織化して世界を作った。

2.5. The world we made is the diametric opposite of Heaven in every way.

私たちが作った世界は、あらゆる点で天国とは真反対である。

2.6. God did not make the world; we did.

神は世界を作らなかった。それをしたのは私たちである。

2.7. The ego has one need: to stay in business, to confirm itself, to reinforce its reality, to protect itself from God’s Love.

エゴは必要としているものがある。忙しさの内に留まること。自己自身を堅固にすること、その実在性を強化すること、自分自身を神の愛から守ること。

2.8. We made this world of separate places and different moments to confirm the ego by “proving” that separation is an objective reality.

私たちはこの分離した場所と異なった瞬間からなるこの世界を作ったが、それは分離が客観的実在であることを証明することで、エゴを堅固にするためである。

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 2/17

1. Our home is reality, Heaven, the Kingdom of God, a spiritual realm of pure oneness and boundless joy which can never be threatened.

1.1. Since nothing real can be threatened, then the world is not real.

実在的なものは脅かされ得ないのだから、世界は実在的ではない。

1.2. Reality is formless, spaceless, timeless oneness, beyond all limitation, opposition and distinctions.

実在は形なく、空間を持たず、時間のない一者であって、すべての限界、対立、相違を超越している。

1.3. God is a Being of limitless, changeless Love Who is incapable anger or attack.

神は限りなき存在、変わらざる愛であって、怒ることも攻撃することも出来ない。

1.4. God extended Himself to create His Son, Christ, Who is one with God and is the single Self of Sonship.

神は御自身を拡張して御子・キリストを創造した。彼は神と1つで、子の身分を持つ単一の自己である。

1.5. Extension is the dynamic of reality, in which reality timelessly extends itself and eternally increases.

拡張は実在の原動力であって、それに於いて実在は無時間的に自らを拡張し、永遠に増大する。

1.6. Reality is maximal; it is the supreme joy.

実在は最大なる者である。それは至高の喜びだ。

1.7. Reality is home, the longing of our hearts, the object of all our desires.

実在は故郷、私たちの心のあこがれ、私たちが望むすべての対象である。

"Return to the Heart of God " by Robert Perry 1/17

Robert Perry の “Return to the Heart of  God” はA Course in Miracles の理論的な側面のガイドブックです。コースのエッセンスを16の命題にまとめ上げ、それがそのまま16の章になっています。この16章はさらに97のキーとなる考え方に拡張され、それがそのまま節の表題になっています。だから目次を読むだけでコースの全体像がつかめるようになっていて、非常によくまとめられています。特筆すべきは16の命題を表すイラストが裏表紙の内側にあって一目でコースの理論的側面の全体像がつかめるようになっています。これは言葉では説明できませんので是非手に取ってみてください。目次だけ訳してみましょう。まずは16の命題から。

1. Our home is reality, Heaven, the Kingdom of God, a spiritual realm of pure oneness and boundless joy which can never be threatened.

私たちの故郷は実在、天国、神の国、純粋な一性と無限なる喜びの霊的領域であって、その喜びは決して脅かされ得ない。

2. We tried to attack reality, to separate from it, thus making a separate identity – the ego – and the world of space and time.

私たちは実在を攻撃しようと試みた、それから分離するためである。そうして分離した個性 - ego - を作り上げ、空間と時間からなる世界を作った。

3. But the separation occurred only in our minds; in reality it never happened.

しかし分離はただ私たちの心に於いてのみ起きた。実際には[実在に於いては]それは決して生じていない。

4. Yet we believed we had really done it. We thought we had sinned and had thereby thrown our happiness away forever.

だが私たちは自分が実際にそれを行ったと信じた。私たちは罪を犯し、それによって永遠に自らの幸福を投げ捨てたと考えた。

5. We then projected the cause of our suffering onto the world, producing the illusion that it had sinned against us and had robbed us of our happiness.

それで私たちは世界の上に自らの苦難の原因を投影し、私たちに不正を犯して幸せを奪う錯覚を生み出した。

6. Our solution: acquire happiness by rearranging our external world.

私たちの解決方法:私たちの外にある世界を調整しなおして幸福を獲得すること。

7. Our search for happiness is actually an expression of resentment and a quest for vengeance on the past.

私たちの幸福の追求は実際には怨恨[ルサンチマン]の表現であり、過去に対する復讐の追求である。

8. Our “solution” is an attack and so, like the original problem, is an attack on ourselves.

私たちの「解決方法」は攻撃であって、したがって、起源問題と同様に、自分自身への攻撃である。

9. We have lost touch with reality and so need the Holy Spirit’s help to be restored to sanity.

私たちは実在とのつながりを失ってしまい、それで正気に帰るために聖霊の助けを要する。

10. The Holy Spirit’s message is that we never sinned, never changed ourselves. We need only change our mind.

聖霊のメッセージは、私たちは決して罪を犯していないし、決して自分自身変化していないということだ。私たちがしなければならないのは心を変えることのみである。

11. Changing our minds means allowing the Holy Spirit to heal our perception.

私たちが心を変えるということは、聖霊に私たちの知覚を癒す許可を与えることを意味する。

12. We heal our perception by forgiving the world for what it did not do.

世界のしなかったことを赦すことによって、私たちは自らの知覚を癒す。

13. Extending forgiveness to others reveals to us that we too are forgiven. This becomes our one function.

許しを他者へと拡張することが私たちに私たちも赦されていることを明らかにする。このことが私たちの1つの働き[役目]となる。

14. Forgiveness also undoes the blocks that separate us from others, allowing us to experience the fact that we are one.

許しはまた他者から私たちを分離させる障碍を無効にし、私たちが1つであるという事実を経験可能にする。

15. With forgiveness as our practice, we journey toward the goal of true perception.

許しを訓練することによって、私たちは真の知覚という目的地に向かって旅する。

16. When we and the entire world have attained true perception, God Himself will take the final step and lift us home.

私たちと全世界の人々が真の知覚を獲得したとき、神御自身が最後のステップを取り、私たちを故郷へ上げてくれるだろう。

2009年6月11日木曜日

ACIM mind - spirit における HLC と Clarification の一致

某掲示板にて Clarification における mind - spirit の用語解説が混乱しているのではないかという書き込みを見ました。spirit が mind の一部として書かれているのが腑に落ちない。コースの他のところでそういうことが書かれているのを見たことがないということでした。問題の箇所は以下のところ。

C-1.2. In this world, because the mind is split, the Sons of God appear to be separate. Nor do their minds seem to be joined. In this illusory state, the concept of an "individual mind" seems to be meaningful. It is therefore described in the course as if it has two parts; spirit and ego.

これはUrtextのままですね。厳密に言うとイタリック体になっているas if がUrtext では大文字になっているだけです。訳してみると…

「この世界では、マインドは分裂しているので、神の子達は分離しているように見える。彼らのマインドも確かに繋がっているようには思われない。この錯覚した状態にあっては、“個人的なマインド”という概念に意味があるように思われる。したがってコースにおいては あたかも それが二つの部分を持つかのように書かれている。すなわち、スピリットとエゴである。」

では本当に他のところで ACIM はマインドのレベルについて書いていないのでしょうか?探してみるとそれらしいところがありました。それはここで紹介した Gene W. Smith の記事で問題点を指摘されていた文章でした。

FIP版 T-5.III.6
T-5.III.6. I have repeatedly emphasized that one level of the mind is not understandable to another. 2 So it is with the ego and the Holy Spirit; with time and eternity. 3 Eternity is an idea of God, so the Holy Spirit understands it perfectly. 4 Time is a belief of the ego, so the lower mind, which is the ego's domain, accepts it without question. 5 The only aspect of time that is eternal is now.

「私が繰り返し強調してきたことは一つの段階のマインドは別のレベルのマインドを理解できないということである。このことはエゴと聖霊にも当てはまる。また時間と永遠にも。永遠は神の考えであり、聖霊はそれを完璧に理解する。時間はエゴの信念であり、それでエゴの領域である低いマインドは疑うことなく時間を受け入れる。時間の永遠としての唯一の相[あり方]は”今”である。」

ここではマインドの低いレベルをエゴの領域と呼んでいます。ではもう一方の上のレベルのマインドは聖霊Holy Spirit でしょうか?しかし迷いの幻想に生きるマインドを神のペルソナの一つである聖霊とするのは奇妙ですね。このことがGene W. Smith の疑問に思った点でした。それで同じ箇所をHLC で見てみるとここのHoly Spirit はFIP版で編集され変更されたところで元はSoul でした。Soul ならマインドの段階を指し示すのにふさわしいですね。ですからマインドのレベルとして下位の段階をエゴ、上位の段階をSoulと呼んでもいいということになります。

それではSoul と Clarification でいわれているSpirit の関係はどうなるでしょうか?その答えはClarification 自体の中にありました。

C 1.3. Spirit is the part that is still in contact with God through
the Holy Spirit, Who abides in this part but sees the other part as
well. The term ʺsoulʺ is not used except in direct Biblical quotations because of its highly controversial nature. It would, however, be an equivalent of ʺspirit,ʺ with the understanding that, being of God, it is eternal and was never born.

「Spirit は聖霊を通していまなお神に繋がっている部分である。聖霊はこの部分にとどまるが他の部分[エゴ]をも見ている。“soul” という用語は直接聖書から引用する場合でなければ用いられないが、それはその言葉が極めて論争を引き起こしやすいからである。しかしながらそれは、神に属するものであって、永遠であり決して生まれないものと理解して、“spirit“ に相当するとしていいだろう。」

ですから HLC の Soul = Spirit とするならHLC と Clarification の説明が全く一致することになります。FIP版ではそれが見えてきません。FIP版ACIM を読み込んでなおかつ疑問が出てくる場合はやはり初期バージョンの確認が必要であると言えるでしょう。

補足:HLC の始めの部分では聖書の直接的引用でなくてもしばしばSoul という単語がよく使われています。ここではmind の上位の部分がSoul とされていますが、HLC の中にはmind は Soul に起源を持つのだからSoul の一部分であるとの表現もあります。視点の置き所によって、根源との関係という点からそのようにも表現できるということですね。矛盾しているように見えますが、本来分裂していないものを、あたかも分裂したかのように見れば、mind の中にレベルがあるように見えるし、神の創造の働きを受けて存在している点から見れば、神の働きを受けたSoul に包摂されていると見ることも出来るということだと思います。mind soul spirit にあえて訳語を付けるなら、揺れ動く「心」、一本筋の通った「魂」、Holy Spirit の「聖霊」にあわせて「霊」としたいです。

2009年6月5日金曜日

ACIM版権問題の背景 4

2003年10月24日、裁定が公布されACIM の版権は、先行する配布によって無効とされ、FIP や FACIM に限定された配布の権利を否定し、7年間に渡る訴訟費用を Endeavor に支払うよう命じました。

この判決は版権についてのみの判断であり、サービス・マークの件は切り離されています。しかしサービス・マークの認可は通常では考えられません。本のタイトルが商標登録されることはほとんどないし、されるとしても版権がなければ商標・サービス・マークの登録は不可能だからです。

この間、コースについて書く人はわずかの引用しか認められませんでした。しかし、FACIM は自らの出版物にACIM から豊富に引用し、それらを究極的なコースの権威の明白な知覚[perception 皮肉でしょうか?ACIM では通常 ego の誤った認識を指します] と見なしました。しかし判事の判決を読み、Judy の正反対の信じがたい証言がコースのインフラを整備する公共事業部の奥深くに送り届けられました。著者達は既に誰にも許可を求めることなく出版する喜びを思っています。教師達はウェブサイトでACIM のクラス開いても、そのプロバイダーが弁護士から脅しの手紙を受け取ることが無くなると夢見ています。

おわり

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これを読むと裁判前後の混乱した状況が見て取れますね。結局お金なんでしょうか。ACIMという文字があるだけで、ウェブサイトが閉鎖に追い込まれたり、脅迫メールが届いたり。チラシにACIMという文字も "A Course in Miracles" という書名も載せることすら出来ませんから、案内状を出すことも出来ず、別の言葉を考え出さないといけません。

Endeavor はカルト的な組織だと聞いたことがありますが、それにさえ負けてしまうとは、やはり神の意志でしょうか?一本のテープの出現が決定的な影響を与えましたが、その出現もタイミングが良すぎるので何か摂理のようなものを感じます。

今は周辺情報はだいたい分かってきたのでACIM 自体に取り組みたいと思っています。分からないところだらけですので。

ACIM版権問題の背景 3

Circle of Atonement は FACIM / FIP と2000年に仮協定を結び、出版活動は制限されながらも、完全に停止させられることはありませんでした。Endeavor Academy はより攻撃的で、版権自体の合法性を争うことになりました。コースはそもそも版権を持っていないという主張です。連邦地方裁判所の判事Sweetがこの件に7年間携わりました。

Endeavor の主張する版権の無効化に関するほとんどの条項は却下されました。それらは神的存在の著作物に関しては版権を与えることが出来ないという主張に基づくものでしたが、否定されました。しかしたった一つだけ残った条項がありました。 Judy Skutch-Whitson によって長年語られてきた話ですが、正式に出版される前にゼロックスのコピーで彼女はそれを数多く配布しました。その前でさえ、友人達や Helen Schucman の仲間達や Bill Thetford はそのコピーを受け取っていました。 Endeavor は版権が適用される1975年以前に斯くも多くのコピーが制限無く配布されていたということは、コースは既に共有財産[public domain]であったのだと主張しました。

最終的にこの訴訟は2003年3月に公判にかけられました。多くの人々は大きな、財政的にも豊かな FACIM と FIP が支払い能力のない Endeavor を訴えるだけで訴訟に勝つだろうと思っていました。全く奇怪なことに、公判中 Judy Skutch-Whitson は彼女の有名な話、ゼロックス・コピーでの配布の話を驚くほど変えてしまいました。彼女によればこの配布はなかったのです!

「私の言った話は…粉飾され、誇張され…ひどく大げさで…そういう話をしたんです。私はそういうやり方をする人なんです。」

そのとき録音テープが反証として出され、そこにはその配布について何年も前に話した彼女の声が録音されていました。そのときは真実のこととして話したことを、それを今や彼女は断固として否定しました。ミラクル・コミュニティは、彼女が今真実を話しているとどうやって分かるんだと疑問を感じました。これがEndeavor の弁護士が明らかにうまくやった点で、判事に同様の印象を与えたに違いありません。

つづく

ACIM版権問題の背景 2

その後数年の間に非常に複雑なことになりました。1996年にはペンギン・ブックスにACIMを出版する版権の使用が認められました。FIPは1999年に版権の完全な所有権をFoundation For ACIM (FACIM®)に譲渡しましたが、役員の多くが両方兼任していたので、 これは何か利害関係の衝突があったように思えます。[ここのところ事実関係をよく知らないので正しいか自信持てません。原文を参照してください] 中でも最も奇妙なことに、"A Course In Miracles" と言う言葉自体、また”ACIM”という頭字語までが1993年にサービス・マークとして登録されました。その結果、この言葉を印刷したり、Web ページに載せることさえ、その所有者の許可無しには出来なくなりました。そしてそれは実質的に不可能でした。

FIPとFACIM、そしてペンギン・ブックスは強力に版権とサービス・マークを守らせようとし、 組織は無名の脅しの手紙やe-mail を受け取りましたが、それにはやり方を変えないと訴訟になるだろうと書いてありました。弁護士は停止命令の手紙を多くの個人やACIMの組織に送りました。1994年にCompuserve はサービス・マークの侵害のため人気のあるACIM ディスカッション・グループを閉鎖せざるを得ませんでした。私自身の組織も FACIM から1999年に数多くの侵害について述べた手紙を受け取りました。 サインのない手紙です。同じく1999年に Robert Perry と彼の組織も排除命令を受け取り、彼らのすべての本と出版物を破壊するように書かれていました。版権とサービス・マークの侵害のためです。 ウィスコンシン州では1996年に The First Christian Church of Full Endeavor が法的に訴えられました。1999年には Robert Perry の包括的なコース入門書の出版が説明も、可能な手続きの議論もなく、拒否されました。コースのインフラは壊れてしまいました。そして初めてコースの学徒は流れを止めたインフラの存在に気づいたのです。

つづく

ACIM版権問題の背景 1

A Course in Milacles の版権を巡るトラブルや裁判の過程について探せばいろいろな記事が出てきますが、それは書物としてのACIMにだけにとどまらず、"ACIM”という頭字語(acronym:単語の頭文字を並べて作った語)にまでおよび[ACIM®]、ACIMコミュニティーは大混乱に陥ったようです。Rev Tony Ponticello の The Copyright Infrastructure という記事に当時の混乱ぶりが記されています。これを読むと版権フリーになって良かったと思わざるを得ませんね。

トニー師による記事をまとめてみますので、興味のある方は記事のリンクをたどってみてください。

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インフラといえば、電気、ガス、水道、下水とかいろいろありますが、普段意識せず過ごしていますね。しかし、災害などでそれが破壊されると、なくてはならないものだったと初めて気づくわけですが、ACIM についても同じようなことが起きました。けれどもそれが起きるまでほとんど誰もその重要性に気づいていませんでした。

ACIM のインフラとは、版権、サービス・マーク[注1]、出版・配布する権利、ACIMのクラスを開くとき教師の人がそれを公にして伝達することが出来ることなどです。

ACIM に関する本や記事の出版、ACIMのWebの公表、コースのワークショップやクラスの広告などが法律上の問題が生じて不可能になり、その時初めてACIM の生徒はその重要性に気づきました。

このコースのインフラはそれまで正常に機能していたのですが、皮肉なことにコースの人気と市場性が増大することで変化が生じました。1992年春にMarianne Williamson のコースについての本 "Return to Love" が世界的なベストセラーになり、たちまち何百万ドルものお金が巻き込まれることになりました。このとき雨後の筍のようにコースの組織が発生し、それらの多くは、版権を有するthe Foundation For Inner Peace (FIP) と協力しましたが、中にはFIP にもっと背教的なアプローチを取るものもありました。かれらはイエスの著作に版権を主張することが出来るだろうかと思ったわけですね。他の宗教の教典に版権がないように。聖書を引用したいとき、それを許可していただけますかなどと問い合わせる相手などいません。コースを聖書のように受け取ったグループはそれを不自然だと感じたわけです。

注1.職標,職章:航空会社,保険会社などサービス主体の企業組織体が,その提供するサービスを他社のものと区別するための標識,標語など;登録により法的に保護される (ランダムハウス英和辞典より)

つづく

2009年6月3日水曜日

ヘレンのACIM解釈について 14/14

結論 (つづき)

同じように、ヘレンのコース解釈の重要性を過大評価しないようにしよう。コースに関する最も偉大なことの一つは、私たちはイエスの言葉と私たちの持つ書かれた言葉の間に現れた、何十年かの口頭の伝統に頼らないことだ。この事例では、イエスの言うように[Please take note]、誰か口述筆記 [taking dictation] した者がいた。そして私たちはまさに目の前に、紙の上に、英語でその口述筆記を持っている。(そう、最初は編集されているが、大部分はほぼ編集されないままであると言ってもよい。) 私たちは、新約聖書学者が夢見ることが出来るだけで[手に入れることの出来ないもの]、 ipsissima verba[イエスの語ったそのままの言葉], まさにその言葉を持っている。それはその言葉の中に力を持っている。 私たちはヘレンへと遡るか弱い人間の繋がりを信頼する必要はない。ただその本を開くだけでいい。

このことが私たちにどんな人の解釈でも、ヘレンの解釈も入れて、コースの実際の言葉に反していないか吟味する力を与える。だから、私はヘレンのコースについての見解を尊重するけれども、私たちがここで見てきた彼女の見解すべてに同意すると言うことは出来ない。特に彼女のText に対する明らかな軽視、コースが形においてのみ他の道と異なっているという言明には同意しない。しかしながら、私は彼女のとった根本的な解釈上のアプローチには同意する。どう見ても、彼女はコースの literalist であった。彼女は言葉の中に力があることを知っていた。

そのことを考えるなら、他の何を期待できるだろうか?もちろん、人生の目的がそれらの言葉を書き取ることにあったその女性は、それらを言葉通りに受け取っていただろう。もちろん、彼女は、まさにその言葉を割り引いて考える何か手の込んだ正当化など案出しなかった。それは彼女が長年書き写し、編集し、打ち直した言葉なのだ。そしてもちろん、彼女の周りの人々も同じようにコースを読んだ。それが言っていることを実際に意味しているかのように。そしてもちろん、私たちもそうでなければならない。それこそが自らをこの伝統の純粋な始原につなぎ止める方法なのだ。

ジュディス・スカッチ-ウィトソンとケンにはこの小論を公にする前にこの小論のコメントを求めて接触した。ケンはコメントすることを断った。ジュディからは返事を受け取っていない。

おわり

2009年6月2日火曜日

ヘレンのACIM解釈について 13/14

結論

インタビューでジュディが伝える物語、また何年もの間様々な形で出回っている話は吟味されないままである。コースからヘレンを経てケンにいたる黄金の絆のような純粋な理解はなく、ここにあるのはその絆の大きな断絶であって、それはヘレンの死後わずかな年月の後に生じた。 ケンの教えがその真の根源的方向性をそらしたとき、それはヘレンとはまったく異なったものだった。

このことから私たちはジュディの記していることとは別の立場に立つ。彼女の話が明らかに意味しているのは、もしケンと一致しないなら、あなたはヘレンと、ACIMを世界にもたらした女性と一致しないことになるということである。しかし多くの重要なコースの問題点に関してさえ、これまで見てきたように、事実は、ケンに同意するなら、ヘレンと一致しないということである。

したがって、彼女の話の記事に束縛されると感じる必要はない。意図的であれ、意図しないものであれ、この物語は、極めて多くの伝統の起源神話が行うのと同じことをしている。それは信仰者の心をコントロールする。彼らの心をその物語が引いた鉄のレールに添ってのみ動くようにさせる。(このことは極端に聞こえるかもしれないが、本当にそのような状態に陥った人を知るまでは分からないものである。)しかしそんなレールは自由に飛び超えてもかまわない。というのは、そんな物語は持ちこたえることが出来ないからである。どんなに多くのそのような物語が実際にこんなことをしているのか?この物語はケン・ワプニクの自身の言明の証拠にも、ヘレン・シャクマン自身の著作の証拠にも持ちこたえることが出来ない。この物語は、コースの栄誉ある誕生へ、 ヘレンの栄誉あるコース理解へ、私たちを解放して立ち去る。私たちはケン・ワプニクの現在の教えを抱擁するよう強制されない。

このことは自動的にケンの教えを無効にするものではなく、おそらくヘレンとケンとの一致に遡るという理由で、如何なる特別な地位を誰も主張できないことをまさに意味している。その絆から切り離されることで、ケンの様々な教えもその中にある権威から切り離される。一人の人間の解釈として、それらは今や一人で旅に出る。したがって、それらは、他の解釈と同様に自分自身の真価に基づき立つか倒れるかである。

2009年6月1日月曜日

ヘレンのACIM解釈について 12/14

何が起きたのか? (つづき)

別の事例を見てみよう。Forgiveness and Jesus の中で1983年にケンは神の教師であることは何を意味するのかということを説明している。

「イエスは私たちを役割を果たすように世の中に送られます。…私たちはある人々もとへ送られます。…例えばもし、私たちの仕事が自分を大都市の貧民街に連れて行くなら…、もし私たちが苦しむ人、無視された子供達に教えるなら…、もし私たちが虐げられた人々を自由にする手助けをしようと努めるなら…。

イエスは、私たちが平和の使徒、あるいは神の教師であることを必要とします。私たちを通してのみ彼自身の人生で始めようと着手された救いのわざを完成することが出来るからです。…世の苦しみを見るために彼は私たちの目を必要とされます。しかも世を超えて輝く光を見るためにも。攻撃と暴力の反応へとおびえている人々の助けをもとめる叫びを聞くために、私たちの耳を必要とされます。 希望と慰めを彼を忘れてしまった人々に届けるために、私たちの手足を必要とされ、私たちの罪がすべて赦されているという彼の救いのメッセージを語るために、私たちの声を必要とされます。とりわけ必要とされるのは彼の愛のメッセンジャーになろうとする私たちの自発性です。」 29

これは素晴らしい。深い共感を覚える。 しかし14年後にまさに同じ問題-神の教師であることは何を意味するのか-に言及するとき、 私たちはまったく異なったイメージを見る。初期の引用の中では、彼は感動的に語った。「苦しむ人…子供達に教えるために」、虐げられた人々を解放するために、イエスは私たちの「手足」、「声」を用いる。 いまや彼はそのような観念をコースに帰することはせず、「自分を特別なものにしようとするエゴの必要」のせいにする。

「神の教師は自分のための贖罪を受け入れる必要がある。そしてその世界の救済は彼らが単にその贖罪をすること、それのみに懸かっている。 これは取るに足らないことではない。…エゴの世界と自分を特別なものにする必要性はその言葉をゆがめて受けとめ、それ次のように意味していると考える。コースの学習者は、今やうわべは神の上級教師として、行動的に他の学習者に教え、病を癒し、世界に伝導するようイエスに頼まれていると。

ある人が他の人を癒すことも、与えることも、教えることもない。エゴの錯覚しやすい本性を理解することによって自らの内なる真理をただ受け入れることだけがある。…

この点についてさらに言えば、究極的には他者を癒すことは不可能である。何故なら、もし世界が幻想なら、助けを必要とする人は存在するのだろうか?言うまでもなく、癒すという概念全体が二元的な宇宙を前提としている。神はそれを全く知らない。 …この詩にも似た一節[「教師への手引き」の締めの段落]は神の愛の象徴として受けとめるように意図されていて、言葉通りの真理としてではない。」30

この二つの長い引用を見て、それが同じ人によって書かれたと信じることの出来る人はほとんどいないだろう。1983年と1997年の間のある時点でケンは彼の見解において完全な変貌を経たのだ。

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29. Forgiveness and Jesus, pp. 326, 328.

30. Few Choose to Listen, pp. 32-34.

ヘレンのACIM解釈について 11/14

何が起きたのか? (つづき)

事実ケンは彼自身文字通りに理解する人として出発したように見える。彼の最初期の著作には、後期のアプローチで非常に特徴的になる隠喩的アプローチが全く無いように見える。私は確かにその痕跡をなにも見つけられない。これらの著作を読むとき、私は(文字通りの理解者として)彼の言うことすべてにほぼ合意する自分を見出す。

ケンが彼自身 literalist として出発したという考えを支持して、ここに1981年ちょうどヘレンの死後2・3ヶ月に行われたワークショップの写しである小冊子A Talk Given on 'A Course in Miracles,' からの一節がある。

「私たちを愛する誰かある人がいることを知らねばなりません。しかしその人は私たち自身ではありません。それは聖霊、もしくはイエスです。…ワークブックの最後でイエスはこう言っています。『このことを確信していなさい。私は決してあなたを慰めのない状態のままにして置き去りにはしない。』(W-pII.ep.6:8)彼がこれらの言葉でまさに文字通りに[ literally] 私たちの中に私たちに属さない誰かある人がいて、その人が私たちを愛し慰めるだろうということを意味しているのを知らないならば、 私たちはエゴ・システムの岩盤を決して打ち抜くことは出来ないだろう。」24

このことに注意してください。ケンは単に実在的な活動的聖霊を主張するだけでなく、イエスがそのことについて語っているとき、「彼がこれらの言葉でまさに文字通りに意味している」ともまた言っています。少し留まって、このことを正しく評価してみよう。コースが聖霊について私たちと共にあり、私たちを愛し慰める実在的な誰かとして語るとき、 ケンはこの言葉をまさに言葉通りに受け取るよう私たちに力説している。ここでは、ケンの後期の教えに親しんでいる人は飛び出した目玉を眼窩の中に押し戻さなければならないだろう。彼らはつぎに引用するような文章を読み続けているだろうから。すなわち、「どんな言い回しでも、神、聖霊、イエスが…我々の分離した自己と世界とに互いに影響し合う現実的人格[person・ペルソナ]のように示唆するものは、例外なく、二元論的次元における表現であり、隠喩としてのみ意味を持つ」25 、「もしこれらの言葉を言葉通りに受け取るなら、子供時代の世界、神の代わりに主人公の苦境を救う妖精やサンタクロース、甘いパパ[パトロン]の世界に戻っているのに気づくだろう。」26

しかし1981年に戻ってみると、ケンはどう見てもコースの literalist である。その初期の日々には、ヘレンの導きにしたがっていたように思われる。 しかしながら、ヘレンの死後2・3年して80年代の中頃や終わりには、ケンの教えは劇的な変化を経た。その教えは迅速に隠喩的アプローチを採用し、それはケンがコースの実際の言い回しに反対の立場をとり、その言い回しを単に隠喩であるとして退けることを許した。彼が通り抜けた変化の多くの実例の一つとして、ここに1985年の聖霊の実在についての質問に対する答えがある。

「Q. もし分離が幻想で、聖霊がそれを解決するために存在の中に入ってきたのなら、聖霊は幻想なのではありませんか?

A. いいえ、神が彼を創造されたのですから。でもいい質問です。コースの答えはこうです。分離が完全に癒され、聖霊がもはや必要でなくなるときに、彼はなおも存在します。 神が彼を創造されたのですから。」27

ケンはこの問いにコースの語り方やヘレンの聖霊に関する見解の精神に添って回答している。言い換えれば、彼はコースの literalist として答えている。しかしながらここに1997年の同じ問題について後期ケンの言及がある。

「それで同様にまた聖霊も幻想に違いない。無益で意味のないもの[もしくは錯覚]であるものを訂正(翻訳)するのだから。」28

この答えはコースが実際に言っていることとは全く異質である。それはまさにケン自身が初期に言っていたことのまさに正反対である。 1985年:「聖霊が世界で幻想を訂正するという事実は、聖霊が幻想であることを意味するのではない。彼は実在で、永遠なる神の創造である。」1997年:「聖霊が世界で幻想を訂正するという事実は、聖霊が幻想に違いないということを意味する。」 この二つの言明の間のどこかの時点で、ケンは完全に裏返しになったのだ。

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24. A Talk Given on 'A Course in Miracles,' 7th ed. (1st ed. 1983; 7th ed. 1999), p. 109.

25. Few Choose to Listen, p. 95.

26. Few Choose to Listen, p. 69.

27. The Fifty Miracle Principles of 'A Course in Miracles,' 1st ed., pp. 129-130.

28. Few Choose to Listen, p. 88.