2011年12月27日火曜日

秋田の聖母のメダイ

昔秋田の聖母像が涙を流すという奇跡がありました。1975年から1981年まで合計101回にわたる現象でした。
その奇跡に立ち会った安田貞治神父の講話の本を処分しようと思ったものの、ついページを開いてみていると、とても興味深いお話で、捨てることができなくなりました。
一番初めに目についたのは、1984年に教会認可を与えた当時の新潟教区長・伊藤庄治郎司教や、1988年にそれを受理した教皇庁のヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(現・教皇ベネディクト16世)に対する評価が非常に厳しいものであったことです。
調べてみると「秋田の聖母のメダイ」が作られていることが分かったので、早速送ってもらいました。興味のある方はこちらにどうぞ。そういえば、美輪明宏さんも Ave Maria が最高のマントラだって書いてました。Ave Maria のチャンティングも始めようかなと思います。

2011年12月18日日曜日

ヴェーダ・アクセントの教材

ヴェーダのテキストにアクセント記号がついているものがありますが、
無料のいい教材が見つかったので紹介します。
サイババ関連ですが Vedam Tutorials です。
ヤジュル・ヴェーダのルドラム(ルドラ讃歌って感じでしょうか?)です。
Maha Mrityunjaya Mantra も Namah Shivaya もルドラムの一節だそうです。
PDFにmp3、音声埋め込みPDFなど充実しています。

あとサーマ・ヴェーダのメロディーの記号が読めるようになる教材があればいいのですが…

2011年12月17日土曜日

Unni Krishnan の CD 購入しました。

Unni Krishnan “Gayatri Mantra & Mrutyunjaya Mantra” を購入しました。
実はCD購入前にAmazonのmp3ダウンロードで2曲300円で買ったのですが、
Mrutyunjaya Mantra の後半ノイズがひどくてがっかりしました。
Amazon に問い合わせたら返金してくれたので助かりましたが…。
いかにもCDに傷が入っているようなノイズなので、傷入りCDからmp3化したのだろうと思い
もとのCDを買うことにし、安くすませるためインドの通信販売を利用しました。
梱包は日本でも見たことないくらい丁寧で、CD一枚なのにタッパーみたいな
入れ物の中に発泡スチロールを緩衝剤にしてCDが入っていました。
ところが肝心のCDを聞いてみると、やはり同じようにノイズが載っていますw
CDの原版にノイズが入っていたのでした。仕方がないのでSoundEngineFreeという
ソフトでノイズの入っていないところを編集して聴けるものを作ってしまいました。
マントラなので同じメロディーの繰り返しですから、聞いてて継ぎ目が分からないくらいに
うまく編集できました。
ジャケットの裏を見ると前にここに書いたのとは違う説明がしてありました。
Om Jun Sah の OmがBija種字で、シャクティ(Parashakti)がJun、
Sah はlynchpin(要?サンスクリットでkīlaka[pin, pillar])、
このマントラを伝えたのは Maha Chama Pada と書いてあるのですが、
マントラのシャクティとか kīlaka って何なのでしょう。

調べてみるとここを見ると少し説明してありました。
Mantra in japa yoga plays an important part, as mantra is an absolute science. In Hinduism, mantra has six parts. It has got a Rishi (a man of Self realization) who revealed the Mantra to the world for the first time. He is the Drashtra or the Seer for this Mantra. For instance, Sage Viswamitra is the Rishi for the Gayatri. Secondly, the Mantra has a metre (Chhandas), which governs the modulation of the voice. Thirdly, the Mantra refers to a particular Devata or super natural being. This Devata or God is the essence of the Mantra. Fourthly, the Mantra has got a Bija or seed. The seed is the keyword or a series of words, which gives strength to the mantra. Fifthly, every mantra has got power or Shakti. The Shakti is the energy of the Mantra that is the reverberation forms set by the sound of the mantra. This sound aids in the communion of human beings with the Almighty, which is worshipped. Lastly, the Mantra has a Kilaka- pillar or pin. This plugs the consciousness or the Mantra Chaitanya that is hidden in the Mantra. As soon as the plug is removed by constantly repeating the name of the Supreme Divinity, the Chaitanya or the consciousness that is hidden is revealed. The devotee gets to see the Ishta Devata.

2011年12月4日日曜日

Maha Mrityunjaya mantra

Maha Mrityunjaya mantra を毎日唱えることにしました。
これです。
oṃ tryambakaṃ yajāmahe sugandhiṃ puṣṭi-vardhanam
urvārukam iva bandhanān mṛtyor mukṣīya māmṛtāt

もともとこのマントラを知ったのはナンディさんのCD“SivaSivaa!!!”でした。
南インドの訛りなのか発音が少し違うようで、ムクシーヤのところがムルゲイヤに聞こえます。CDを聞きながら同じように発音しようとしても難しいので他の人のチャンティングを探すことにしました。

意外に多いのがオームに続く tryambakaṃ の冒頭を「トラヤン」と発音しているもの。綴り通りだと「トリャン」となると思うのですが、なかなかありません。ウェブ上でこのマントラを紹介してあるところを見ると、発音だけでなく実際に trayambakaṃ と転写していたり、デーヴァナーガリ文字で書いてあっても、त्र्यम्बकं でなく त्रयम्बकं になっているところがあります。
YouTube でいろいろ聞いてみて、発音の観点からのおすすめはここらあたり。
http://www.youtube.com/watch?v=PVd4_KTJG6g たぶん Anuradha Paudwal だと思います。
http://www.youtube.com/watch?v=pEz9nKIQjiI

最初が「トラヤン」になっていますが、マントラの最初と最後におまけ(samput と言うらしい)がついているヴァージョン。歌手はSuresh Wadkar
http://www.youtube.com/watch?v=SV1cVDhKZ6g
http://www.youtube.com/watch?v=mY_9W0wstZE
マントラの最初についているのはこれ、
oṁ hauṁ juṁ saḥ oṁ bhūr bhuvaḥ svaḥ
マントラの終わりについているのはこれです。
oṁ svaḥ bhuvaḥ bhūḥ oṁ saḥ juṁ hauṁ oṁ
oṁ bhūr bhuvaḥ svaḥ の方はガヤトリ・マントラの最初と同じですね。

oṁ hauṁ juṁ saḥ は種字マントラで、Vāmadeva Rishi 伝の oṁ hauṁ saḥ と Kahola Rishi (アシュターヴァクラの父?)伝のoṁ juṁ saḥ を融合したもの。hauṁ [ha+oṁ haはアーカーシャ・タットヴァ] はSadashiva、juṁ は Mrityunjaya[死を克服したもの=Shiva]、saḥ はShakti を象徴するようです。 

種字マントラのチャンティングも神秘的です。
Maha Mrityunjaya Bija Mantra 歌手は
Unni Krishnan です。

2011年12月3日土曜日

ダグラス・ハーディングとvijñāna bhairava tantram


最近カシュミール・シャイヴィズム[カシミール・シヴァ派]に興味を持って調べています。すると昔買ったOshoの『タントラ秘法の書』で解説しているヴィギャン・バイラヴ・タントラ[vijñāna bhairava  tantram]がまさにカシュミール・シャイヴィズムの重要な文献であることに気付きました。

なにかいい解説書がないか調べていると、Swami Shankarananda, “Consciousness is Everything”の抜粋が目に入りました。 見てみるとダグラス・ハーディングについて何か書いています。

「もしダグラス・ハーディングがシヴァ派のテキストのVijnanabhairavaを覗いていたなら、瞑想法62を見つけたことだろう」と書いてあります。スートラ85にそれはありました。
लीनं मूर्ध्नि वियत्सर्वं भैरवत्वेन भावयेत्।
तत्सर्वं भैरवाकारतेजस्तत्त्वं समाविशेत्॥ ८५॥
līnaṁ mūrdhni viyat sarva bhairavatvena bhāvayet |
tat sarva bhairavākāratejastattva samāviśet || 85 ||

英訳はJaideva Singh の訳文が引用されていました。

The yogi should contemplate the entire open space (or sky) under the form of the essence of Bhairava and as dissolved in his head. Then the entire universe will be absorbed in the light of Bhairava.

 「
開けた空間(または空[ソラ])は純粋意識の本質の顕現である。それを自らの頭の中に溶け込ませて観照しなさい。全宇宙は純粋意識の光の中に吸収されるだろう」

これはまさにダグラス・ハーディングの方法そのものですね。

2011年11月29日火曜日

パーニニ文典購入

Astadhyayi of Panini by Sumitra M. Katre が届いた。
インドの本屋さんからAbeBooks 経由で送料込み3000円切った。
1334ページ、重量2kgくらい。
エアメールなのに1カ月くらいかかるのはインドの神秘だろうか?

2011年11月21日月曜日

パーニニの天才性

平岡昇修著『初心者のためのサンスクリット文法I』を手に入れて、正誤表を見ながら本に書き込んでいたら意味不明のところがありました。どういう意味か調べているうちにそれがパーニニの用語であることがわかり、彼の驚くべき天才性を目の当たりにしました。といっても私が理解したのは記述のスタイルだけなのですが、それだけでパーニニの巨大さの片鱗をうかがうことができました。

その正誤表の分からなかったところというのは、名詞の造語法・接尾辞に関するものでした。
動作主名詞をつくる接尾辞に -aka がありますが、正誤表に णक 【(ṇ)aka】 と記されているところを、ण्वुल् 【ṇvul】 に修正するように指示されています。 -aka は動詞語根に直接付く第一次接尾辞で-aka の前についている (ṇ) は指示文字と呼ばれ、この場合動詞語根の母音変化の振る舞いを指示する記号です。それでは何故 णक 【(ṇ)aka】 を ण्वुल् 【ṇvul】 に修正しなければならないのか分かりませんでした。 णक 【(ṇ)aka】 の方はちゃんと接尾辞の-aka が見えますが、ण्वुल् 【ṇvul】の方にはさっぱり接尾辞らしいものが見当たりません。

ṇvul を辞書で引いてみると、なんと辞書に載っていません。仕方ないのでネットで検索すると、どうやらパーニニに関連するらしいことがわかりかけてきました。Aṣṭādhyāyī(パーニニ文典)に書いてあるらしいですw もともと指示文字(ṇ)とか考えたのがパーニニで、ṇvul もパーニニの用語なのでした。そうすると最初の ṇ が怪しいですね。これも指示文字なのでしょう。調べているうちに最後の l も指示文字らしいようです。分かりやすく指示文字は大文字で表記する流儀があるようなので、それに従うとṄvuLと表記できます。(指示文字Lの意味は分かりませんでした。)それで vu=aka になるらしいのですが、どこに説明したあるのか分からずお手上げです。 ṇvul を辞書で引いても出てこないのは、もともとそれは単語ではなくて、パーニニの考案した記号だからでした。

第一、ṇ で始まる単語自体、モニエルに4単語しかなく、そのうち2単語は単なる音としての子音に関するものです。このあたりに普段めったに語頭に現れない音を記号に採用して、記号と単語の混同が起きないようにしたパーニニの工夫がすでに表れていたのでした。

それでとりあえず ण्वुल् 【ṇvul】の追及はあきらめて、Aṣṭādhyāyī の始まりのところを見てみることにしました。(思えばこの時何も理解していませんでした。)Google books で次の2冊を参考にしました。

Pāṇini's Grammatik, Otto von Böhtlingk
Aṣṭādhyāyī of Pāṇini,
Sumitra Mangesh Katre


初めにシヴァ・スートラという音の分類表のようなものがあります。パーニニ自身その分類表の見かたとか何も書いていません。(後で訳者の解説を読んでどうにか理解しました。)音を分類してあること以外意味不明なのでスルーしました。それで最初のスートラがこれです。
वृद्धिरादैच्  vṛddhirādaic
独訳を見るとこれで「ā、ai、au をヴリッディという」となっています。
vṛddhirādaic は vṛddhir ādaic に分けられますから、前半にヴリッディは判別することができます。語末の r は-i ā- ⇒ -irā- の外連声です。
 それではどうして ādaic が ā、ai、au になるのでしょうか? 例によって辞書を調べても出てきません。第一サンスクリットでは語末に現れる子音は限られていて(絶対語末)、c は語末に存在することができないのです。Sumitra Mangesh Katre の英訳を見ると、āT=aiC と分解されています。ādaic の d は外連声で t  が有声化したものだと分かります。T も C も指示文字(IT marker)です。āT の T の意味合いはまだよく理解できないので、とりあえず āT で意味されているのは ā としておきます。
(Wikipediaによると「Tの文字もあらわれるがこれもITマーカーと呼ばれ、1.1.70で定義されている。このTはそれに先立つ音素が音素リストにあらわれず、アクセントと鼻音化をしめすメタ文節的特徴を含む単一の音素である。例えばāTとaTはそれぞれ{ā}、{a}をあらわしている。」)
次に aiC ですが、どうしてこれでヴリッディの
ai、au を示すことができるのかというと、これは先にスルーしたシヴァ・スートラの音の一覧表を用いた表記方法になっているのです。シヴァ・スートラの4行目を見ると ai au C となっています。aiC で ai で始まり C で終わるまでの音を示しています。最後の C は IT marker なので、実質示されているのは、ai au の二つになります。

次のスートラを見ると…
अदेङ् गुणः adeṅ gu
aḥ
グナは一目でわかるので、残りの adeṅ ですが Sumitra Mangesh Katre に従って分解し、連声前の形に戻して IT marker を大文字にして分かりやすくすると、aT eṄ になります。aT は短母音の a を示し、 eṄ は先ほどのシヴァ・スートラの3行目を見ると e o Ṅ になっているので e で始まり Ṅ で終わる e o を示しています。したがって「グナは a、e、o である」となります。


ここまで来て最初からこの調子で、最後まで変わらず方程式のような記述が続いているのではと気がつきました。心の叫びとしては「最初からこれかよ!」です。古典語は格変化があるのでbe動詞がなくても文が成立するのですが、パーニニのスートラはbe動詞だけでなくほとんど動詞自体がないスタイルでコンパクトに記述しているようです。しかしこれが紀元前4世紀の人間の考えることでしょうか?!

 

2011年11月17日木曜日

サイ・マー 動画まとめ


光と豊穣の聖者 サイマー
録画日時 : 2011/02/22 13:02 JST
http://www.ustream.tv/recorded/12859819
礼子デューイさんのインタビュー

Sai Maa Lakshmi Devi 光の聖者サイマー
録画日時 : 2011/04/24 22:05 JST
http://www.ustream.tv/recorded/14247244
サイ・マーがライブ出演したときの録画

サイマー ディクシャ トレーニング
録画日時 : 2011/04/02 13:19 JST
http://www.ustream.tv/recorded/13716643
見るだけでディクシャを受け、伝授もされるビデオ

礼子デューイさんインタビュー【改訂版】
録画日時 : 2011/10/13 15:59 JST
http://www.ustream.tv/recorded/17845445
パワーアップしたサイマー・ディクシャ伝授あり
上の編集前のビデオ
録画日時 : 2011/10/11 20:27 JST
http://www.ustream.tv/recorded/17812944 

この時点では自分自身にディクシャはできないので、他の人にディクシャを与えたら、その時自分自身を通してディクシャのエネルギーが流れるから、ディクシャが欲しいときにはほかの人にディクシャを与えましょうという話でした。

その後公式のホームページを見ると10月18日の記事で自分自身にディクシャできるようになったと告知されています。
その手順は1.光に感謝をささげる。 2.両手を合わせる。(合掌でなくて両手で水を掬うような感じでしょうか) 3.手のひらの中心を前頭葉(髪の生え際のところ)に置く。

http://www.humanityinunity.org/utility/showArticle/?objectID=10074
Give Sai Maa Diksha to Yourself!

Sai Maa has just announced that those trained in Sai Maa Diksha can now offer Diksha to themselves.

Traditionally, Sai Maa Diksha is a hands-on technique that is offered from one person to another. Now, those who are trained may place their hands on their own heads to offer themselves the blessing. When offering to ourselves, we follow all the same steps:

1. Offer our gratitude to the Light;
2. Bring the hands together;
3. Rest the center of the palms above the frontal lobe (at the hairline).

Sai Maa Diksha is a powerful technique to initiate and support the process of Enlightenment by pouring Light into the seeds of fear in the brain. The word Diksha means "initiation" and has existed for eons. Every Diksha is unique to the Master who offers it. Sai Maa Diksha carries the energy of Sai Maa's lineage and is a transmission of Light that we can all be trained to offer.

2011年11月15日火曜日

サンスクリット用のIME、フォント

サンスクリットの入力で自由にデーヴァナーガリー入力するための、サンスクリットIMEを紹介してみましょう。

最初に試したのはChandas IME
しかしこれは64bitのOSに対応せず自分の環境では動かせませんでした。

次に試したのがVidyut。キー配列は、ほぼChandasと同じですが、Chandasで出来たZWNJやヴェーダ語のアクセント記号の入力ができません。

ヴェーダ語まで手を出す余裕はないのでアクセント記号の入力ができないのは構わないけれど、ZWNJの入力ができないのはちょっと困ります。

ドキュメントを読んでいると、必要ならMicrosoftのKeyboard Layout Creator 1.4でカスタマイズするように書いてあったので、ChandasIME風に改造しようかと思ったのですが、それよりもChandasIME自体をKeyboard Layout Creator で読み込んでSetup Packageを作成すれば手間が省けると気づきました。そこでVirtualPCのXPモードでChandasIMEをインストし、それをKeyboard Layout Creator で読み込んで64bit OS 用のセットアップ・プログラムを作成しました。

他にVaidikaというIMEもあります。

IAST、HK関連でこんなのもあります。
GGM XHK Keyboard
キーはHarvard-KyotoでIASTInternational Alphabet of Sanskrit Transliteration)入力できるIME。

Veni XHK Sans Condensed
Veni XHK Serif Condensed
Harvard-KyotoのテキストをIAST表示にするFont。

2011年11月12日土曜日

Ashtavakra Gita のE-Text

ネット上にAshtavakra Gita のE-Text がいくつかありますが、比較してみると結構間違いがあるので、自分でE-Text を作ることにしました。

最初に下敷きにしたのはこれ。調べてみると結構間違いがたくさんあります。
Sanskrit text with English Transliteration & Translation by John Richards
http://www.scribd.com/doc/54192897/

次に上のに比べてかなりよく修正されているのがアーナンダ・ウッドのテキストで複合語も単語間をハイフォンで繋いで示しているので助かります。
Ashtavakra-samhita by Ananda Wood
http://sites.google.com/site/advaitaenquiry/Ashtavakra.pdf

これとほぼ同じテキストがここにあります。
http://gretil.sub.uni-goettingen.de/gret_utf.htm#Astavg

それで最終的に Nityaswarupananda のデーヴァナーガリーのテキストと比較して残された間違いを消していっているところです。1940年版と1953年版があります。下のリンクは1940年版です。
 http://www.scribd.com/doc/2673274/AshTavakra-Geeta


ITRANS で転写して、ITRANSLATOR で変換してデーヴァナーガリーと IAST のテキストを作成するのですが、同じ単語でも表記の仕方がいくつかあるので、Nityaswarupananda のテキストに合わせて最後は手で編集することにしました。

デーヴァナーガリー文字の場合フォントによって、表現できる結合文字の数に違いがあるので、できるだけ多くの結合文字を使えるようにまずフォントを選ばないといけません。それでITRANSLATORのホームページからSanskrit2003.ttf と svayambhava.org から Chandas.ttf 等をダウンロードしてインストしました。


参考までにフォントによって結合文字の表現がどのように変わるかいくつか例を挙げてみました。
まずṅgaを見てみるとMangal では縦の結合文字が表示できません。

ddhaではどのフォントも結合文字が表示されますが、一字追加してddhraになるとMangalで結合文字が表示できずに、最初のdがヴィラーマでの子音表記になります。さらに一文字追加してddhryaになるとSanskrit2003でも結合文字が表示できずに最初のdがヴィラーマを用いた表記になります。ChandasとSiddhantaでは結合文字表記できますが、字の形が違いますね。

次のjjaの三つの表記方法は入力の仕方によって表現できるものです。
ज(ja)+ヴィラーマ+ज でjjaの結合文字が表記できます。(Mangalにはjjaの結合文字がないので表記できません。)Sanskrit2003では水平方向の結合になっているのに対し、残りの二つでは垂直方向の結合文字になります。
ज+ヴィラーマ+ZWJ+ज でjの半体を用いた表記になります。ZWJはゼロ幅接合子(Zero-width joiner U+200D)
ज+ヴィラーマ+ZWNJ+ज で半体にならずヴィラーマ自体が表示される表記になります。ZWNJはゼロ幅非接合子(Zero-width non-joiner, U+200C)

Nityaswarupananda のテキストから実例を挙げてみます。アシュターヴァクラ・ギーターの2章7節ですが、上段にjjaの水平方向の結合文字、下段にjjの半体表記とヴィラーマによる表記があります。

ウパデーシャサーハスリー校訂本が届く

前田専學さんのウパデーシャサーハスリーの校訂本が届きました。

早速気になっていた韻文編の17章第24詩節を調べると、やはり意図的に削除されていました。

韻文編のテキストを見ると大きくA系とB系に分かれていて、次のような特徴があるそうです。

A系…韻文編が最初に来て、散文編がそれに続く。韻文編4章5’を欠いている。
B系…散文編が最初に来て、韻文編がそれに続く。韻文編4章5’を含む。

A系はさらに a、b、c に分かれ、B系は c、d に分かれます。

a … 韻文編18章227~230 の3詩節半を含む。テキストのみ。マハーバーラタ12,242,4の引用を持たない。
b … 韻文編第18章227~230 の3詩節半が欠落している。テキストは1本を除いてアーナンダジュニャーナの注解を伴っている。マハーバーラタ12,242,4の引用を持たない。
c … 韻文編第18章227~230 の3詩節半が欠落している。ボーダニッディの注解を伴う。マハーバーラタ12,242,4の引用を17章23詩節と24詩節の間に持つ。
d … 韻文編第18章227~230 の3詩節半を含む。テキストのみ。マハーバーラタ12,242,4の引用を17章23詩節と24詩節の間に持つ。
e … 韻文編第18章227~230 の3詩節半を含む。ラーマティールタの注解を伴う。マハーバーラタ12,242,4の引用を17章23詩節と24詩節の間に持つ。

注解者の年代は、アーナンダジュニャーナは13世紀半ば、ラーマティールタは17世紀。
アーナンダジュニャーナの採用したテキストとボーダニッディの採用したテキストには大きな差異はなく、インドで繰り返し印刷されてきたのはB系のテキストだということでした。

2011年10月8日土曜日

out of the blue

Headless Way のホームページに Harding's Moment of Discovery という記事があります。
“On Having No Head”からの引用で、頭を持たない事実を発見した瞬間の描写になっています。

It was eighteen years ago, when I was thirty-three, that I made the discovery. Though it certainly came out of the blue, it did so in response to an urgent enquiry; I had for several months been absorbed in the question: what am I? The fact that I happened to be walking in the Himalayas at the time probably had little to do with it; though in that country unusual states of mind are said to come more easily. However that may be, a very still clear day, and a view from the ridge where I stood, over misty blue valleys to the highest mountain range in the world, with Kangchenjunga and Everest unprominent among its snow-peaks, made a setting worthy of the grandest vision.

ここの out of the blue というのが理解できなかったのですね。the blue って憂鬱な気持ちのことなのかと想像していました。それで邦訳をみたら、これ「突然に」という熟語だったのでした。

辞書で確認してみると確かにそう書いてありますが、どうしてそういう意味になるのかまでは説明してありません。こんな簡単なことばでできているイディオムがわからなかったことにショックを受けて、子供向けの熟語集の“Sholastic Dictionary of Idioms”を購入しました。早速探してみると“Out of the clear blue sky”の項目の中にありました。blue は沈んだ気持ちでなくて青空だったのですね。同じようなイディオムに“Bolt from the blue”があって遅くとも1800年代初めには使われていたとあります。「青天の霹靂」そのままです。

なお「青天の霹靂」の故事を語源由来辞典で調べると

青天の霹靂の「青天」は雲ひとつない澄んだ青空、「霹靂」は突然雷が鳴ること。
青天の霹靂の由来は、中国南宋の詩人「陸游(りくゆう)」が「九月四日鶏未鳴起作」の中で、
「青天、霹靂を飛ばす」と表現したことによる。
「青天、霹靂を飛ばす」は、病床に伏していた陸游が突然起き上がり、
筆を走らせた勢いを雷に喩えたもので、本来は筆の勢い表した言葉であった。

発想がまったく同じで、使われだした時期が1800年代と遅いので、 ひょっとして中国起源かと想像してしまいます。

2011年10月6日木曜日

五月際の救難信号

ダグラス・E・ハーディングの『今ここに、死と不死を見る』高木訳を読んでいて、意味の分からない一文に出会いました。

「S・O・S……S・O・S……これは私の五月際の叫びである……私はこの荒れる海で溺れてさ迷っている……!」

「五月際の叫び」???意味不明です。スペイン語訳を見ると
 Ésta es mi Llamada de Socorro 「これは私の救難信号です」
普通の素直な文章です。

原文の英語が未見なので推測すると、Llamada [appeal, signal] で「叫び」に対応しているのでしょう。ではSocorro [succor, relief, aid, help; rescue] に対応する「五月際」とはなんでしょう?

救難とMay でググると……ありましたw

メーデー (遭難信号)

メーデー(Mayday)は、音声無線で遭難信号を発信する時に国際的に使われる緊急用符号語。フランス語の「ヴネ・メデvenez m'aider)」、すなわち「助けに来て」に由来する。一般に人命が危険にさらされているような緊急事態を知らせるのに使われ、警察、航空機の操縦士消防士、各種交通機関などが使う。3回繰り返すのが一般的(メーデー、メーデー、メーデー)で、雑音が強い状況で似たような言葉と取り違えられることを防ぎ、同時に「メーデー呼び出し」に関する通信と実際の「メーデー呼び出し」を区別する。

2011年10月5日水曜日

前田専学のシャンカラに関する著作について

今日、前田専学の “A THOUSAND TEACHING: The Upadeśasāhasrī of Sankara” が届きました。実はサンスクリット原典の校訂本 “Sankara's Upadeśasāhasrī” と間違えて注文したもの。現在校訂本を注文中です。こちらの方は校訂テキストと英訳の二巻セットです。AbeBooksで検索すると一番安くてインドからの送料込みで2650円ぐらい。(ちなみに英訳本は古書で1000円未満で購入)。

購入のきっかけはアシュターヴァクラ・ギーターに付託[錯覚、superimposition]の例として第2章9節に真珠母と銀、縄と蛇、太陽光と[蜃気楼の]水が挙げられていますが、トーマス・バイロンの訳註に世界の幻影的性質を示す不二一元論の定番のたとえであると書かれていました。岩波文庫本『ウパデーシャ・サーハスリー』で確認すると、三つとも見つけることができましたが、どういう言葉使いをしているのか原典で確認したくてネット上のサンスクリットテキストで確認していたら、多くの誤植・脱落を発見して正確なテキストが欲しくなったためです。

最初に前田専学校訂のサンスクリット原典をitransで転写したものと、それから生成されたデーヴァナーガリー文字のPDFで見ていたのですが、散文編の第2章に脱落があるのを見つけました。これは散文編だけのPDFがあったので補うことができました。次に、itrans で~Ngがすべて~ng になっているのを検索して一つ一つつぶしていきました。

そうこうしているうちに韻文編の第17章のナンバリングがずれているのに気づきました。どこかで番号をつけ間違えたのだと思い、インドで出版されたシャンカラの全集や英訳と比較していたら、本来89詩節なければならないのに、88しかありません。原典の17章の第24詩節が欠落していたのでした。

この24詩節目がどこかに転写されていないか探したのですが見つからないので、シャンカラの全集と英訳本のPDFのデーヴァナーガリー文字を解読していくことにしました。サンスクリット文法は独学しようとして何度も挫折し、結局、涌井和著『般若心経を梵語原典で読んでみる』しかやり遂げることができなかったぐらいの学力ですので複合文字にてこずりましたが、次のようになりました。


manasashcendriyANAM ca hyaikAgryaM paramaM tapaH |
tajjyAyaH sarvadharmebhyaH sa dharmaH para ucyate ||
(itransですがchをcで転写しています。 )
これをソフト的にデーヴァナーガリー文字に変換するとこうなります。

मनसश्चेन्द्रियाणां ह्यैकाग्र्यं परमं तपः।

तज्ज्यायः सर्वधर्मेभ्यः स धर्मः पर उच्यते॥

Unicode iast で転写するとこう。

manasaścendriyāṇā ca hyaikāgrya parama tapaḥ |
tajjyāyaḥ sarvadharmebhyaḥ sa dharmaḥ para ucyate ||
 
これ実はマハーバーラタの第12巻 242,4 の引用です。

英訳
The attainment of the one-pointedness of the mind and the senses is the best of austerities[tapas].
It is superior to all religious duties and all other austerities.


邦訳
「無価値な対象から心と五感を遠ざけることは、最高の苦行である。それはあらゆる務めの中で最高のものである。」山際素男訳『マハーバーラタ』第7巻91ページ

 さて、これで欠文を補うことができたと、ほっと一息入れたとき、気になって岩波文庫本を見ると17章は88詩節しかありません。24詩節を見るとやはり欠落しています。ひょっとしてこれは校訂作業の中で、意図的に削除されたのでしょうか。今日届いた英訳本を見てみても何のコメントも見つけられませんでした。

2011年9月23日金曜日

アシュターヴァクラ・ギーター PDF 情報追加

アシュターヴァクラ・ギーターのPDF情報追加です。

Ashtavakra Samhita translation and commentary by V.S. Iyer
http://wisdomsgoldenrod.org/publications/iyer/ashtavakra_samhita.pdf

Ashtavakra-samhita by Ananda Wood(明記されていないが多分)
http://sites.google.com/site/advaitaenquiry/Ashtavakra.pdf
サンスクリット原文(ローマ字転写)、英訳、そしてサンスクリットの単語ごとに対応する英語が示されている。Swami Nityaswarupananda の Ashtavakra Samhita と同じような構成だが、サンスクリット表記がデーヴァナーガリーでなく、ローマ字転写 IAST (International Alphabet for Sanskrit Transliteration) になっているので、判読しやすい。

ついでにサンスクリット辞書のサイトのリンク集
Cologne Digital Sanskrit Dictionaries
http://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/

Apte Sanskrit Dictionary Search
http://www.aa.tufs.ac.jp/~tjun/sktdic/

V. S. Apte's The practical Sanskrit-English dictionary
http://dsal.uchicago.edu/dictionaries/apte/

Macdonell, Arthur Anthony. A practical Sanskrit dictionary
http://dsal.uchicago.edu/dictionaries/macdonell/

サンスクリット転写一覧表
http://www.alanlittle.org/projects/transliterator/translittable.html

2011年9月21日水曜日

ダグラス・ハーディングの聖ヨハネの引用について

ダグラス・ハーディングの翻訳を読んでいると、いろんな聖者の言葉が引用されていますが、単に聖ヨハネとされているものが、十字架の聖ヨハネ(16世紀のスペインの神秘家)の言葉であることが多いようです。

今回気になったのは『今ここに、死と不死を見る』(The Little Book of Life and Death)の15ページ。

「私は絶えず死ぬというやり方によって

自分の中に私自身を住まわせないで生きているが、

だからこそ、私は死なないのである。(聖ヨハネ)」

同書のスペイン語版(ネットで見つけたPDF)を見るとこうなっています。

Vivo sin vivir en mí
Y de tal manera espero,
Que muero porque no muero.
San Juan de la Cruz ⇒ 十字架の聖ヨハネ

どうやら詩の一節のようです。彼の全集を見てみると確かにこの詩がありました。詩の一節で検索するとアビラの聖テレサの詩もヒットします。神秘家の詩でもあり一目では意味がつかめません。

彼女の詩では2行目に二つの版があって、 一つは十字架の聖ヨハネと同じで、もう一つは“y tan alta vida espero,”(私はかくも高き生を望みます)となっています。

意味がよく分からないので『十字架の聖ヨハネ詩集』西宮カルメル会訳注で確認すると、このような訳になっていました。

私は生きないで 生きていて
死ぬ程に 待ち焦がれている
死んでいない故に 死ぬ程に。

最初の行に訳注がついていて、「en mí(私のなかに)との言葉は、生きることにも[Vivo]生きないことにも[sin vivir]かかっているようである。つまり、『私は私の中に生きないで生きていて』、あるいは『私は生きないで私の中に生きていて』。」とあります。

この詩の冒頭の3行は当時流行していたもので、もともと十字架の聖ヨハネやアビラの聖テレサの作ったものではないそうです。

2011年9月18日日曜日

奥村一郎(カルメル会の司祭)の回想録

ダグラス・ハーディングの本を読んでいて、聖ヨハネの引用として挙げられている詩が十字架の聖ヨハネ(16世紀スペインのカトリック司祭、神秘主義者)の引用であることに気づきました。

調べているうちに、『カルメル山登攀』の翻訳者である奥村一郎さんの回想録を見つけました。

キリスト教に批判的で禅に傾倒していた彼の人生は、中川宋渕禅師の思いがけないことばでまったく驚くべき展開をすることになりました。

「今、あなたはキリスト教がよく分かったと思う。しかし、まだ頭でしか分かっていない。体で分かるためには洗礼を受けなさい」
http://www.tokibo.co.jp/vitalite/pdf/no28/v28p11faith.pdf

続きはこちらでどうぞ

http://www.tokibo.co.jp/vitalite/okumura.html

2011年9月17日土曜日

アシュターヴァクラ・ギーター


シャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』とか、ずいぶん以前に読んで、思想的には面白いと思ったのですが、どうも腑に落ちませんでした。どうにも凡人には手の届かない感じです。
ところがダグラス・ハーディングに出会って、不二一元論への手掛かりを得た感じがします。
そこで視野に入ってきたのが「アシュターヴァクラ・ギーター」です。
とりあえずネット上で資料を収集するところから始めました。

Ashtavakra Gita
Sanskrit text with English Transliteration & Translation by John Richards
http://www.scribd.com/doc/54192897/
デーヴァナーガリー文字とアルファベット文字による転写とジョン・リチャーズの英訳を一つにしたもの。

Ashtavakra Gita, Translated by Bart Marshall
http://www.messagefrommasters.com/Ebooks/Spiritual-Books/Ashtavakra-Gita.pdf
http://www.scribd.com/doc/50569117/
バート・マーシャルによる英訳

The Heart of Awareness, a translation of The Ashtavakra Gita by Thomas Byrom
http://bhagavan-ramana.org/ashtavakragita2.html
http://www.4shared.com/document/S-U6ncWF/Ashtavakra_Gita__The_Heart_of_.html
トーマス・バイロンによる英訳、散文的でなく、詩になっているのが素晴らしい(らしい)。
これは邦訳が出ている。邦訳はいま売り切れて古書でしか手に入らないようですが、原書のほうを購入しました。原書の方には簡単な註がついています。邦訳の方は手に入れていないのでわかりません。
http://www.amazon.co.jp/dp/4903821439/

Ashtavakara Samhita by Swami Nityaswarupananda
http://www.4shared.com/document/5RPda3yN/Ashtavakra_Samhita_-_Swami_Nit.html
http://www.scribd.com/doc/2673274/
Advaita Ashrama から出ているので、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダの系列でしょうか。サンスクリットの言葉に詳細に註がついているのですが、デーヴァナーガリー文字でアルファベットを用いた転写でないところがちょっと辛いです。

Ashtavakra Samhita Study Notes of Swami Shraddhananda
www.vedanta.org/reading/monthly/articles/2005/10.ashtavakra.pdf
www.cincinnatitemple.com/articles/1ashtavakra.pdf
Swami Shraddhananda がアシュターヴァクラ・ギーターの本の余白に書き込んだコメントをまとめたもの。アシュターヴァクラ・ギーターの本文は含まれません。

Ashtavakra Gita / अष्टावक्र गीता
http://sites.google.com/site/vedicscripturesinc/home/ashtavakragita
サンスクリット、ヒンディー(たぶん)、英訳進行中。現在15章まで完了。

Ashtavakra Mahageeta, Vol 1 [Enlightenment: The Only Revolution, Discourses on the great mystic Ashtavakra.]
http://www.messagefrommasters.com/Beloved_Osho_Books/Indian_Mystics/The_Mahageeta_Volume_1.pdf
http://ebookbrowse.com/the-mahageeta-vol-1-pdf-d106965156
OSHOによる注解書、アシュターヴァクラ・ギーター本文は部分的に取り上げられており、全文を見ることはできません。
邦訳は『エンライトメント―ただひとつの変革 神秘家・アシュタヴァクラ』
http://www.amazon.co.jp/dp/4881781804/

このほかに以下のものがあります。
Duet of One: The Ashtavakra Gita Dialogue
http://www.amazon.co.jp/dp/0929448111/
Ramesh S. Balsekar による注解書、注文中です。

2011年9月11日日曜日

ダグラス・ハーディング『顔があるもの顔がないもの』 アシーヌとは?

ダグラス・ハーディング『顔があるもの顔がないもの』高木悠鼓訳を読んでいて意味の分からない一文に出会った。プロチノスの引用なのだが…
「向こうにはたくさんの顔があるが、ここにはそのすべての顔のたった一つの頭がある。もし、自分自身の動きか、アシーヌが幸運にも引っ張って、ただ、向きを変えさえすれば、内側を見て、ここの自己、神、そして、そのすべてを見つけるだろう。」

「アシーヌが幸運にも引っ張って」のところが分からない。原文で確認したいところだが、古書でもあまり安く出回っていないようなのでネット上で該当箇所を探してみると、どうにか見つけることができました。

http://home.primus.ca/~remedy3/Questing Beyond.htm

Looking outward we see many faces, look inward and all is the One Head. If a man could but be turned about - by his own motion or by the happy pull of Athene - he would at once see God, and himself, and the All.


ギリシア神話でゼウスの頭から生まれたとされる女神アテナ(Ἀθηνᾶ, Athēnā、アテーナー)ですね。ギリシャ神話の女神の名前を英語読みしてそのまま表記しているので分からなくなっていたのでした。「アシーヌが幸運にも引っ張って」は自分で向きを変えることに対比してアテナ神の恩寵の導きによって自己への振りかえりが生じることの表現でした。

英訳を頼りにして調べると、これはプロチノスのエネアデスのエネアス6・第5論文「有るものは同一のものでありながら、同時に全体としていたるところに存在するということについて」第二編7章からの引用でした。下にこの7章の全文(英訳)があります。
http://www.sacred-texts.com/cla/plotenn/enn613.htm

参考までに『プロティノス全集』中央公論社から邦訳をあげておきます。

『つまり、「(真の)われわれのもの」や「(真の)われわれ」は(真に)有るものへと導きかえされるのであって、われわれはあの真に有るものやそれから最初に発出したものへと昇っていき、あの世界にあるものを、その影像や印影を持つことなしに直知するのである。だが、もしそうであれば、それは、われわれがあの世界に有るものだからこそなのである。それゆえ、もしわれわれが真なる知識にあずかれば、われわれはあの真に有るものとなるのであるが、それは、われわれのなかにそれらの一部を持つからではなく、われわれがその真に有るもののなかにあるからである。だが、われわればかりでなく、他のものも真に有るものであるから、われわれは(他のものも含めて)すべてが真に有るものであることになる。したがって、われわれは真に有るものであり、かつ真に有るもののすべてと渾然一体をなしていることになる。したがって、われわれはすべてであり、一つであることになる。
しかし、われわれは、自分たちの依存しているもの(すなわち「真に有るもの」)から外に目をそらすから、自分たちが一つであることに気付かないのであって、それは、内側に一つの頭を持っていながら外側に向いている多くの顔のようなものなのである。だが、もし人が自分の力によってであれ、幸運にもアテナご自身に引かれることによってであれ、(内側へと)向き直ることができるならば、彼は自己自身を神として、また万有として、見ることになるであろう。彼は、初めのうちは自分を万有として見るのでないけれども、やがて、「自分をどの方向に据えて、どのように規定すればよいのか、どこまでが自分なのか」わからないままに、有るもの全体から自分を区別することをやめ、どこにも進まず、まさに万有の据えられているその場所にとどまっているうちに、万有全体と一体化することになるのである。 』

2011年8月29日月曜日

黄檗でシンクロしています。

David R. Hawkins の “Truth vs Falsehood” を見るといろんなことをキネシオロジーで1~1000のスケールで測定した結果が掲載されている。そのなかにSpiritual Teacher という項目があって宗教家等の精神レベルの測定結果が一覧表になっているのだが、その中でHuang Po という中国人ぽい名前の人がダントツで高い数値を出していた。だがまったく心当たりがない。孔子や老子よりもはるかに高いポイントが出ているのに。

調べてみると黄檗だった。臨済ならたくさん解説書・研究書等あるけど黄檗だと語録の『伝心法要』が宇井伯壽訳と入矢義高訳の二つあるだけでどちらも絶版である。英訳になると John Eaton Calthorpe Blofeld, “The Zen Teaching of Huang Po: On the Transmission of Mind” が安く手に入るようだ。中国の古典を英訳で読むとまた違った味わいがあるのでちょっと欲しいなと思いながらそのままにしていたのだが…

ある日 Frank J. Kinslow, “Beyond Happiness” を見ていると無限の空間を発見する方法があった。やり方は簡単で、両手を前に伸ばして30センチくらいの間隔をあけて手のひらを向い合せにすると、両手で制限された空間ができる。その空間に意識を集中させながら次第にその間隔を保ったまま顔に近づける。最後には顔の横を通って、その時何を感じましたかとくるのだが、分かったような分からないような感じである。

この方法はDouglas Harding, “Look for Yourself” から借りてきたものだと書いてあるのでDouglas Harding の本をチェックしたりネットをさまよっていると、The Headless Way のホームページやその日本語版のThe Headless Way - 頭がない方法 を見つけた。そして日本語字幕の付いたYouTube の FacelessJapanFilms を見ていや驚きました。こんな方法があるのかと。

早速図書館で “On Having No Head: Zen and the Rediscovery of the Obvious” の邦訳『心眼を得る』由布翔子訳を借りて読んだ。先にダグラス・ハーディング考案の実験を済ませていたので衝撃は少なかったが、その分言いたいことがよくわかった。

最後にヒューストン・スミスの解説があった。最近は手を抜いた翻訳をよく見かけるが、原著の解説まできちんと翻訳していて親切である。
「今回の改訂版の紹介に当たっては、本書の初版がいかにして私の手元に転がり込んだか、そのいきさつを語るのが一番かと思う。
あれは一九六一年のことだった。私はオーストラリアの大学で講義を終えて帰国する途中バンコクに寄って、ジョン・ブロヘルドと彼が最近訳した黄檗と慧海の禅語録について議論をかわすことになっていた。会話が軌道にのって程なく私が持ち出した諸問題について参照するために、彼は籐のテーブルの上の前の週思いがけず送られてきたという小冊子に手をのばした。それがいま私の手元にあるこの本だったのである。彼が問題に答えるのにそれをどう利用したかは覚えていないが、彼のこの本そのものへの熱い思いだけははっきり記憶にのこっている。『このハーディングなる男は何者なのかまったく知らない』と彼はいった。『ロンドンで私の知人たちのためにタクシーの運転手をしているのかもしれない。だが彼は実によくわかっている』」
ジョン・ブロヘルドってJohn Eaton Calthorpe Blofeld だよね。う~ん、こっちに進めってことかな?!

黄檗の語録『伝心法要』は宇井伯壽訳註の岩波文庫か入矢義高訳注の『禅の語録』第八巻、または入矢訳が筑摩書房の世界古典文学全集36Aの『禅家語録I』に収録されているのでそれを求めるしかない。いずれも絶版で図書館で岩波と世界古典文学全集を借りてみた。宇井訳は訳といっても読み下し文なのでちょっと読みこなせない。ただし註が詳細なので読めなくても利用価値はある。たとえばテキストに見今とあるのを現今の意であるなど原文を注意深く読みたい人には必要だろう。入矢訳は漢文・読み下し文・現代語訳になっているのでスラスラ読める。古い訓読の誤りも修正してあるらしい。

ちなみに黄檗のポイントは960。これがどれだけ高い数値か他の人と比べてみると…
ラメッシ・バルセカール 760、ラマナ・マハルシ 720、ニサルガダッタ・マハラジ 720、パタンジャリ 715、アディ・シャンカラ 710、ラーマクリシュナ 620、ヴィヴェーカーナンダ 610、ヨガナンダ 540、シュリ・ユクテスワ 535
キリスト教系の神秘主義者で見るとアヴィラの聖テレサ 715、マイスター・エックハルト 705、マグデブルクのメヒティルド 640、タウラー 640、十字架の聖ヨハネ 605、ピオ神父 585、聖アウグスティヌス 550
ちなみに日本人では道元 740、鈴木老師[たぶん大拙でなく、Shunryu Suzuki 鈴木俊隆 1904–1971] 565
また別に Avatars and Great Spiritual Teachers という項目があり、イエス・キリスト 1000、ブッダ 1000、クリシュナ 1000、ゾロアスター 1000、十二使徒 980、神の名としてのオーム 975、洗礼者ヨハネ 930、モーゼ 910、アブラハム 850、聖パウロ 745、モハメッド(コーラン口述時) 700、モハメッド(38歳)130。

2011年8月10日水曜日

アーサー・ガーダムと原子力

アーサー・ガーダムをご存じですか。精神科医ですが前世の記憶を持った患者を治療するうちに、キリスト教の異端で輪廻転生を信じるカタリ派の忘れ去られていた歴史を発掘することになった人です。いま大野龍一さんの翻訳によるガーダムの自伝を読んでいます。
ガーダムについて調べていたら大野龍一さんのブログにたどり着き、そこにガーダムが原子力について言及している記事を見つけました。

祝子川通信 Hourigawa Tsushin
中世キリスト教異端カタリ派の「予言」
http://koledewa.blog57.fc2.com/?m&no=73
「科学者による鉱物の放射能の研究は、非常に邪悪なものとなった。しばしば原子力エネルギーを戦争で何十万もの人々を殺戮するのに使うこと[=原爆]は逸 脱だが、それをいわゆる創造的目的のために産業用燃料として使うこと[=原発など]は賞賛すべきことだと言われる。そのような論理は粗雑で危険である。問 題の要点は、そうした知識は深い洞察力と高潔さをもった少数の人々の手によってのみ、そのような人々によってだけ研究されるべきだということである。われ われはすでに、グラハムやギラベール・ド・カストルが生の防護壁が維持されるものとして線引きした研究の範囲をはるかに越えてしまっている。こんにちで は、適切な学術的資格をもつ個人なら誰でも、物理学の研究室で自由にこうした研究を行うことができ、禍に満ちた原材料[プルトニウムなど]を解き放つこと ができるようになってしまった。霊たちは強調した。現代科学の全パターンは、邪悪で破局的な結果をもたらすものの生産に魅せられていると。科学の秘密は、 一握りの、科学が宇宙的な知識のほんの一つの局面をあらわすにすぎないのだということをよく理解した、進歩した少数派以外の人々には決して探究されること がない。そのような少数派は、僅かな人にしか明かされず、決して探究されたことのない科学的真理が存在するということを知っている。人間は自然の秘密の乱 用によって自らを最終的に破滅させるだろうということが[霊たちによって]指摘された。ありそうなのは核戦争による[終局的]破壊ではない。なぜなら、ア マチュアの予言者たちによって描かれる恐怖にもかかわらず、それで惹き起される荒廃は絶対的なものではなく、生命の絶滅を含むものではないだろうからであ る。もっとずっとありそうなことは、鉱物、とりわけ放射性物質を含む鉱物に閉じ込められた生命創造力の、人間による解放によって、頻発する地震や台風、破 局的な大洪水が惹き起されることである。人間によるエネルギーのこうした絶えざる開発は、コントロール不能の連鎖反応を惹き起し、それがこの惑星の破壊に 帰着するだろう」(『偉大なる異端』第二部・第十八章)

2011年6月13日月曜日

マクドナルド-ベインの本

古書で『心身の神癒』(Devine Healing of Mind & Body)と『神癒の原理』(The Higher Power You Can Use)を購入。
きっかけは上江洲義秀さんの講話で『心身の神癒』が真のヒーリングについて書かれた唯一の本(上江洲さんが読んだ中で)として絶賛されていたため。

世界中のヒーラーの集まる大会のようなものに参加したとき、ヒーリングして疲れたというヒーラーにヒーリングを頼まれたそうだ。その参加者の中に真のヒーリングを説くものは一人もいなかった。では真のヒーリングとは何か?体を癒すことがヒーリングではない。真のヒーリングとは神と一つになること??だったかな。講話を聞き直して確認してみよう。

『心身の神癒』はまだ読みはじめたばかりなので、概略だけ記すと、イエス・キリストが著者に神がかりして語ったままを本にしたものとされている。

同じ訳者による『解脱の真理』(Beyond The Himalayas)と『キリストのヨーガ』(The Yoga of the Christ)も気になる。『キリストのヨーガ』は昔買ったような気がするのだが探しても見つからない。捨ててしまったのだろうか?

『解脱の真理』と『キリストのヨーガ』の原文はこちらに掲載されています。英語のできる方はどうぞ。
http://macdonaldbayne.homestead.com

2011年6月5日日曜日

神は悪をも善用す

表題の言葉は実はどこから来たものか忘れていた。

検索をかけると教父・聖アウグスティヌスのエンキリディオンのものだった。

昔中世哲学を勉強していたので頭の片隅に残っていたようだ。

マドモワゼル愛さんのブログを読んでいてこの言葉を思い出した。

名前だけ見ると女性と勘違いする人がいると思うが、西洋占星術の記事などを昔よく雑誌に掲載されていた方、昭和25年生まれの男性だ。

最近はどんな活動をされているのか全く知らなかったが、ブログを見つけて読んでみると結構深い、感心してしまった。

http://www.love-ai.com/diary/diary.cgi?date=20110602

「被災民の多くは、なぜ食糧が来ないのか、、なぜ毛布が配られないのか、、なぜこんなにひどい扱いなのか、、、という本当の理由を人間的直観力によって確信している。この国は、国を売り、国民を売っている、、、との確信である。そうでなければ、このような対応はありえない、、、という確信である。しかし、思わない方向に物事は動くという面もある。今回の否決によって救われた菅という流れだが、これからが本当に菅が苦しむことになる。詰め将棋の最終段階の中でとりあえずは逃げ回ったものの、最後の落城はみじめなはず。今の流れは、とにかく一度この日本を壊す、、、その後に出てくるものに、神は思いを寄せ、、、その後の完全支配に悪は思いを寄せる。しかし神も悪も求める流れは一度、壊して立て直すことにある。その意味で目的は一致しており、神も悪魔も使う人は同じとある。菅はまさに神からも悪魔からも使われているので奇跡的に長持ちする大事なお役になっている。そういう意味では菅さん頑張れ、ということになるのだろう。もっともっと悪くするまでとにかく頑張れ、、、ということであるのだろうが、凡人の私には受け入れがたい不快さである。それをわかって鳩山は豹変したのだとしたら凄い人物だが、どうも私の買いかぶりだったのかも。まあ、これからの流れがこれでどうなるか。日本はますます大変になっていくことだけは確かだと思う。次の展開はおそらく金融異変ではないか。政治的に最悪の状況はこれでできたわけだから、心おきなく次の事件を起こせる。日本をゆさぶる次の展開を起こせる。おそらく金融異変ではないか。それもそんなに先のことではないだろう。今度こそ、全国民が被害をこうむる。そして次は食糧難か、、、と、次々イベントがあるでしょう。私は信念として、もう人類は悲しみを通さずに次の時代を迎える時に来ている、、、という考えであり、今でもその信念は変わっていない。もう悲劇を通さずとも新たな時代をつくっていくやり方がきっとある。それには、全方位的利益を構造的に作れなければいけない。その意味では、不信任案否決はやむないのだろうが、古い人情体質が面白くないものを感じている私は、まだまだ古い人間なのだと言うことはわかる。悪人も善人もへんな人も全部つかって、全部が面白く、全員が幸福に感じる、、、そういうやり方がきっとある。その際に、へんな人は人の上に立ちたがるだろうから、上に立たせ、まともな人が補佐し、力ある悪人が行動力を発揮し、力ない善人が祈りの力で支える、、、そんな感じだが、まだまだでしょうね、、、そういう時代は。なので、自分の周囲で多少なりともそうした世界をつくって行く楽しさを実践する。まずは自分の中にある色々な感情や価値観をまとめ、全的統一を自分としていく。良い面の自分だけを自分と思わず、厭な面の自分だけをことさら嫌わず、、、統一した中で輝いてくるものに従う、、、まだまだ先は長いということを今回の否決騒ぎで感じた。まあ、ゆっくりいきましょう。」

2011年6月4日土曜日

注目している人など

http://firthpierlaait.jp/
ファース ピアーライト と名乗っておられる方です。
足立育朗さんの関連でたどり着きました。
『変換』という本を自費出版されています。
この方が災害に備えるようメッセージされています。
ピクニックに行くような気分で避難の準備をしましょうといっておられます。
またとろろや海苔など海草類をとりましょうといわれているので放射能の被害にも備えましょうということですね。
ということは半減期の短い放射性ヨウ素がこれからもどんどん飛んでくるということなのでしょうか?

『変換』の本は意識を上昇させるための情報を記しているだけでなく、本自体が「意識のひろがりをサポートさせていただく振動波-受振-発振-装置」として完成されたということです。

二度ほど読んでみました。なかなかの本ではあると思いますが、まだ本当のところは理解できません。
この本を通じて意識が次元上昇する過程をしるしたブログを紹介しておきます。現在もう更新されていませんが、過去記事から読んでみて、とても興味深かったです。

浜田ままのブログ
http://ameblo.jp/mama369/

2011年4月12日火曜日

これからが本番?

強震モニタを見ていると東日本ではひっきりなしに地震が続いています。

みゆ吉さんは、今日の6弱の地震の30分前に、警告の書き込みをされています。さすがといわざるを得ませんが、そのあとで…

>安心した方が多いみたいなので…
>まだまだ続きそうな音なので、注意していて下さい。m(__)m
>かなり高まっていますヨ~(>_<)

とまだまだ要注意だと引き締めておられます。

いろいろ情報をあさっている内に上江洲義秀さんにぶち当たりました。
覚者だといわれています。見た目は若き日のサイババにそっくり。
どうも瞑想者の霊眼にはこれからが本番と写っているようです。
溜息。
Ustreamで講話(光話と書くらしいですが)が聞けます。
http://www.ustream.tv/channel/okinawa-yuinakizin

2011年2月16日水曜日

ACIM Urtext HLC Compare Report 更新

Urtext HLC Chapter 8 を更新しました。

インフォ追加と、細かい修正です。今回 Urtext の脱落を補ったところはカギ括弧で示しました。また Urtext と HLC で違いがあるところで、問題のある方をフォントを赤にして自分の判断を一部示しています。

今回英語の勉強になったところ

Urtext 8J1
This could not possibly have occurred unless the mind was already profoundly split, making it possible for IT to be afraid of what it really is.

HLC 8J1
This could not possibly have occurred unless the mind were ALREADY profoundly split, making it possible for the mind to be AFRAID of what it really is.

最初の This は Fear of the Will of God を指しています。Urtext では was のところがもともと were とタイプされていて、それを横線で消して上に was と手書きされています。HLC、FIP は were のままです。

仮定法過去で were と was でどう違うのか調べると、If I were you、as it were などの決まり文句以外の場合、一・三人称単数主語の場合((略式))では直説法の was を用いるのが普通だそうです。なので Urtext の修正はくだけた表現になっているけど、無理に修正する必要はなかったということになりそうです。それで Urtext の was のフォントを赤にしています。

帰結節の時制で見ると仮定法過去完了ですが、条件節と時制が一致していません。けれど、これは問題ないようです。条件が現在(過去もそうであったが今も変わらずそうであるという変わらない事実に反することを示す)で、帰結が過去のことを示しているとこうなります。

『現代英文法講義』安藤貞雄 p.377 の例文
If it were not for immense number of the eggs, the herring would long ago have been quite extinct.
もしも膨大な数の卵がなかったならば、ニシンはとうの昔に絶滅していただろう。
『実践ロイヤル英文法』p.197の例文
If I were man, I would have fallen in love with her, too. もし私が男なら、私もまた彼女に恋してしまったことでしょう。(「私が男でない」という事実は過去も現在も変わっていないので条件節は仮定法過去)

もう一つ気になった unless を辞書で引くと、「仮定法と共に用いられるのは((まれ))」と出ています。『英文法解説(改訂三版)』p.402-403 では「unless は事実に反対の仮定の条件を示す仮定法には使えないが、仮定法を含む文の後ろにつけ加えることはできる」としていますが、Graver や Thomson が依然として仮定法で unless=if not としていることを訝しんでいます。

では『実践ロイヤル英文法』で unless を仮定法で使うことができる((まれ))な場合を見てみると、「仮定法構文で、ある条件が非現実、ないしは実現の可能性の極めて乏しいこととして示されている場合でも、話者や聞き手の頭の中で、その条件の中に多少なりとも実現の可能性があると意識されれば、unless を使うことができる」(p.249)とありました。