2011年10月8日土曜日

out of the blue

Headless Way のホームページに Harding's Moment of Discovery という記事があります。
“On Having No Head”からの引用で、頭を持たない事実を発見した瞬間の描写になっています。

It was eighteen years ago, when I was thirty-three, that I made the discovery. Though it certainly came out of the blue, it did so in response to an urgent enquiry; I had for several months been absorbed in the question: what am I? The fact that I happened to be walking in the Himalayas at the time probably had little to do with it; though in that country unusual states of mind are said to come more easily. However that may be, a very still clear day, and a view from the ridge where I stood, over misty blue valleys to the highest mountain range in the world, with Kangchenjunga and Everest unprominent among its snow-peaks, made a setting worthy of the grandest vision.

ここの out of the blue というのが理解できなかったのですね。the blue って憂鬱な気持ちのことなのかと想像していました。それで邦訳をみたら、これ「突然に」という熟語だったのでした。

辞書で確認してみると確かにそう書いてありますが、どうしてそういう意味になるのかまでは説明してありません。こんな簡単なことばでできているイディオムがわからなかったことにショックを受けて、子供向けの熟語集の“Sholastic Dictionary of Idioms”を購入しました。早速探してみると“Out of the clear blue sky”の項目の中にありました。blue は沈んだ気持ちでなくて青空だったのですね。同じようなイディオムに“Bolt from the blue”があって遅くとも1800年代初めには使われていたとあります。「青天の霹靂」そのままです。

なお「青天の霹靂」の故事を語源由来辞典で調べると

青天の霹靂の「青天」は雲ひとつない澄んだ青空、「霹靂」は突然雷が鳴ること。
青天の霹靂の由来は、中国南宋の詩人「陸游(りくゆう)」が「九月四日鶏未鳴起作」の中で、
「青天、霹靂を飛ばす」と表現したことによる。
「青天、霹靂を飛ばす」は、病床に伏していた陸游が突然起き上がり、
筆を走らせた勢いを雷に喩えたもので、本来は筆の勢い表した言葉であった。

発想がまったく同じで、使われだした時期が1800年代と遅いので、 ひょっとして中国起源かと想像してしまいます。

2011年10月6日木曜日

五月際の救難信号

ダグラス・E・ハーディングの『今ここに、死と不死を見る』高木訳を読んでいて、意味の分からない一文に出会いました。

「S・O・S……S・O・S……これは私の五月際の叫びである……私はこの荒れる海で溺れてさ迷っている……!」

「五月際の叫び」???意味不明です。スペイン語訳を見ると
 Ésta es mi Llamada de Socorro 「これは私の救難信号です」
普通の素直な文章です。

原文の英語が未見なので推測すると、Llamada [appeal, signal] で「叫び」に対応しているのでしょう。ではSocorro [succor, relief, aid, help; rescue] に対応する「五月際」とはなんでしょう?

救難とMay でググると……ありましたw

メーデー (遭難信号)

メーデー(Mayday)は、音声無線で遭難信号を発信する時に国際的に使われる緊急用符号語。フランス語の「ヴネ・メデvenez m'aider)」、すなわち「助けに来て」に由来する。一般に人命が危険にさらされているような緊急事態を知らせるのに使われ、警察、航空機の操縦士消防士、各種交通機関などが使う。3回繰り返すのが一般的(メーデー、メーデー、メーデー)で、雑音が強い状況で似たような言葉と取り違えられることを防ぎ、同時に「メーデー呼び出し」に関する通信と実際の「メーデー呼び出し」を区別する。

2011年10月5日水曜日

前田専学のシャンカラに関する著作について

今日、前田専学の “A THOUSAND TEACHING: The Upadeśasāhasrī of Sankara” が届きました。実はサンスクリット原典の校訂本 “Sankara's Upadeśasāhasrī” と間違えて注文したもの。現在校訂本を注文中です。こちらの方は校訂テキストと英訳の二巻セットです。AbeBooksで検索すると一番安くてインドからの送料込みで2650円ぐらい。(ちなみに英訳本は古書で1000円未満で購入)。

購入のきっかけはアシュターヴァクラ・ギーターに付託[錯覚、superimposition]の例として第2章9節に真珠母と銀、縄と蛇、太陽光と[蜃気楼の]水が挙げられていますが、トーマス・バイロンの訳註に世界の幻影的性質を示す不二一元論の定番のたとえであると書かれていました。岩波文庫本『ウパデーシャ・サーハスリー』で確認すると、三つとも見つけることができましたが、どういう言葉使いをしているのか原典で確認したくてネット上のサンスクリットテキストで確認していたら、多くの誤植・脱落を発見して正確なテキストが欲しくなったためです。

最初に前田専学校訂のサンスクリット原典をitransで転写したものと、それから生成されたデーヴァナーガリー文字のPDFで見ていたのですが、散文編の第2章に脱落があるのを見つけました。これは散文編だけのPDFがあったので補うことができました。次に、itrans で~Ngがすべて~ng になっているのを検索して一つ一つつぶしていきました。

そうこうしているうちに韻文編の第17章のナンバリングがずれているのに気づきました。どこかで番号をつけ間違えたのだと思い、インドで出版されたシャンカラの全集や英訳と比較していたら、本来89詩節なければならないのに、88しかありません。原典の17章の第24詩節が欠落していたのでした。

この24詩節目がどこかに転写されていないか探したのですが見つからないので、シャンカラの全集と英訳本のPDFのデーヴァナーガリー文字を解読していくことにしました。サンスクリット文法は独学しようとして何度も挫折し、結局、涌井和著『般若心経を梵語原典で読んでみる』しかやり遂げることができなかったぐらいの学力ですので複合文字にてこずりましたが、次のようになりました。


manasashcendriyANAM ca hyaikAgryaM paramaM tapaH |
tajjyAyaH sarvadharmebhyaH sa dharmaH para ucyate ||
(itransですがchをcで転写しています。 )
これをソフト的にデーヴァナーガリー文字に変換するとこうなります。

मनसश्चेन्द्रियाणां ह्यैकाग्र्यं परमं तपः।

तज्ज्यायः सर्वधर्मेभ्यः स धर्मः पर उच्यते॥

Unicode iast で転写するとこう。

manasaścendriyāṇā ca hyaikāgrya parama tapaḥ |
tajjyāyaḥ sarvadharmebhyaḥ sa dharmaḥ para ucyate ||
 
これ実はマハーバーラタの第12巻 242,4 の引用です。

英訳
The attainment of the one-pointedness of the mind and the senses is the best of austerities[tapas].
It is superior to all religious duties and all other austerities.


邦訳
「無価値な対象から心と五感を遠ざけることは、最高の苦行である。それはあらゆる務めの中で最高のものである。」山際素男訳『マハーバーラタ』第7巻91ページ

 さて、これで欠文を補うことができたと、ほっと一息入れたとき、気になって岩波文庫本を見ると17章は88詩節しかありません。24詩節を見るとやはり欠落しています。ひょっとしてこれは校訂作業の中で、意図的に削除されたのでしょうか。今日届いた英訳本を見てみても何のコメントも見つけられませんでした。