2011年9月23日金曜日

アシュターヴァクラ・ギーター PDF 情報追加

アシュターヴァクラ・ギーターのPDF情報追加です。

Ashtavakra Samhita translation and commentary by V.S. Iyer
http://wisdomsgoldenrod.org/publications/iyer/ashtavakra_samhita.pdf

Ashtavakra-samhita by Ananda Wood(明記されていないが多分)
http://sites.google.com/site/advaitaenquiry/Ashtavakra.pdf
サンスクリット原文(ローマ字転写)、英訳、そしてサンスクリットの単語ごとに対応する英語が示されている。Swami Nityaswarupananda の Ashtavakra Samhita と同じような構成だが、サンスクリット表記がデーヴァナーガリーでなく、ローマ字転写 IAST (International Alphabet for Sanskrit Transliteration) になっているので、判読しやすい。

ついでにサンスクリット辞書のサイトのリンク集
Cologne Digital Sanskrit Dictionaries
http://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/

Apte Sanskrit Dictionary Search
http://www.aa.tufs.ac.jp/~tjun/sktdic/

V. S. Apte's The practical Sanskrit-English dictionary
http://dsal.uchicago.edu/dictionaries/apte/

Macdonell, Arthur Anthony. A practical Sanskrit dictionary
http://dsal.uchicago.edu/dictionaries/macdonell/

サンスクリット転写一覧表
http://www.alanlittle.org/projects/transliterator/translittable.html

2011年9月21日水曜日

ダグラス・ハーディングの聖ヨハネの引用について

ダグラス・ハーディングの翻訳を読んでいると、いろんな聖者の言葉が引用されていますが、単に聖ヨハネとされているものが、十字架の聖ヨハネ(16世紀のスペインの神秘家)の言葉であることが多いようです。

今回気になったのは『今ここに、死と不死を見る』(The Little Book of Life and Death)の15ページ。

「私は絶えず死ぬというやり方によって

自分の中に私自身を住まわせないで生きているが、

だからこそ、私は死なないのである。(聖ヨハネ)」

同書のスペイン語版(ネットで見つけたPDF)を見るとこうなっています。

Vivo sin vivir en mí
Y de tal manera espero,
Que muero porque no muero.
San Juan de la Cruz ⇒ 十字架の聖ヨハネ

どうやら詩の一節のようです。彼の全集を見てみると確かにこの詩がありました。詩の一節で検索するとアビラの聖テレサの詩もヒットします。神秘家の詩でもあり一目では意味がつかめません。

彼女の詩では2行目に二つの版があって、 一つは十字架の聖ヨハネと同じで、もう一つは“y tan alta vida espero,”(私はかくも高き生を望みます)となっています。

意味がよく分からないので『十字架の聖ヨハネ詩集』西宮カルメル会訳注で確認すると、このような訳になっていました。

私は生きないで 生きていて
死ぬ程に 待ち焦がれている
死んでいない故に 死ぬ程に。

最初の行に訳注がついていて、「en mí(私のなかに)との言葉は、生きることにも[Vivo]生きないことにも[sin vivir]かかっているようである。つまり、『私は私の中に生きないで生きていて』、あるいは『私は生きないで私の中に生きていて』。」とあります。

この詩の冒頭の3行は当時流行していたもので、もともと十字架の聖ヨハネやアビラの聖テレサの作ったものではないそうです。

2011年9月18日日曜日

奥村一郎(カルメル会の司祭)の回想録

ダグラス・ハーディングの本を読んでいて、聖ヨハネの引用として挙げられている詩が十字架の聖ヨハネ(16世紀スペインのカトリック司祭、神秘主義者)の引用であることに気づきました。

調べているうちに、『カルメル山登攀』の翻訳者である奥村一郎さんの回想録を見つけました。

キリスト教に批判的で禅に傾倒していた彼の人生は、中川宋渕禅師の思いがけないことばでまったく驚くべき展開をすることになりました。

「今、あなたはキリスト教がよく分かったと思う。しかし、まだ頭でしか分かっていない。体で分かるためには洗礼を受けなさい」
http://www.tokibo.co.jp/vitalite/pdf/no28/v28p11faith.pdf

続きはこちらでどうぞ

http://www.tokibo.co.jp/vitalite/okumura.html

2011年9月17日土曜日

アシュターヴァクラ・ギーター


シャンカラの『ウパデーシャ・サーハスリー』とか、ずいぶん以前に読んで、思想的には面白いと思ったのですが、どうも腑に落ちませんでした。どうにも凡人には手の届かない感じです。
ところがダグラス・ハーディングに出会って、不二一元論への手掛かりを得た感じがします。
そこで視野に入ってきたのが「アシュターヴァクラ・ギーター」です。
とりあえずネット上で資料を収集するところから始めました。

Ashtavakra Gita
Sanskrit text with English Transliteration & Translation by John Richards
http://www.scribd.com/doc/54192897/
デーヴァナーガリー文字とアルファベット文字による転写とジョン・リチャーズの英訳を一つにしたもの。

Ashtavakra Gita, Translated by Bart Marshall
http://www.messagefrommasters.com/Ebooks/Spiritual-Books/Ashtavakra-Gita.pdf
http://www.scribd.com/doc/50569117/
バート・マーシャルによる英訳

The Heart of Awareness, a translation of The Ashtavakra Gita by Thomas Byrom
http://bhagavan-ramana.org/ashtavakragita2.html
http://www.4shared.com/document/S-U6ncWF/Ashtavakra_Gita__The_Heart_of_.html
トーマス・バイロンによる英訳、散文的でなく、詩になっているのが素晴らしい(らしい)。
これは邦訳が出ている。邦訳はいま売り切れて古書でしか手に入らないようですが、原書のほうを購入しました。原書の方には簡単な註がついています。邦訳の方は手に入れていないのでわかりません。
http://www.amazon.co.jp/dp/4903821439/

Ashtavakara Samhita by Swami Nityaswarupananda
http://www.4shared.com/document/5RPda3yN/Ashtavakra_Samhita_-_Swami_Nit.html
http://www.scribd.com/doc/2673274/
Advaita Ashrama から出ているので、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダの系列でしょうか。サンスクリットの言葉に詳細に註がついているのですが、デーヴァナーガリー文字でアルファベットを用いた転写でないところがちょっと辛いです。

Ashtavakra Samhita Study Notes of Swami Shraddhananda
www.vedanta.org/reading/monthly/articles/2005/10.ashtavakra.pdf
www.cincinnatitemple.com/articles/1ashtavakra.pdf
Swami Shraddhananda がアシュターヴァクラ・ギーターの本の余白に書き込んだコメントをまとめたもの。アシュターヴァクラ・ギーターの本文は含まれません。

Ashtavakra Gita / अष्टावक्र गीता
http://sites.google.com/site/vedicscripturesinc/home/ashtavakragita
サンスクリット、ヒンディー(たぶん)、英訳進行中。現在15章まで完了。

Ashtavakra Mahageeta, Vol 1 [Enlightenment: The Only Revolution, Discourses on the great mystic Ashtavakra.]
http://www.messagefrommasters.com/Beloved_Osho_Books/Indian_Mystics/The_Mahageeta_Volume_1.pdf
http://ebookbrowse.com/the-mahageeta-vol-1-pdf-d106965156
OSHOによる注解書、アシュターヴァクラ・ギーター本文は部分的に取り上げられており、全文を見ることはできません。
邦訳は『エンライトメント―ただひとつの変革 神秘家・アシュタヴァクラ』
http://www.amazon.co.jp/dp/4881781804/

このほかに以下のものがあります。
Duet of One: The Ashtavakra Gita Dialogue
http://www.amazon.co.jp/dp/0929448111/
Ramesh S. Balsekar による注解書、注文中です。

2011年9月11日日曜日

ダグラス・ハーディング『顔があるもの顔がないもの』 アシーヌとは?

ダグラス・ハーディング『顔があるもの顔がないもの』高木悠鼓訳を読んでいて意味の分からない一文に出会った。プロチノスの引用なのだが…
「向こうにはたくさんの顔があるが、ここにはそのすべての顔のたった一つの頭がある。もし、自分自身の動きか、アシーヌが幸運にも引っ張って、ただ、向きを変えさえすれば、内側を見て、ここの自己、神、そして、そのすべてを見つけるだろう。」

「アシーヌが幸運にも引っ張って」のところが分からない。原文で確認したいところだが、古書でもあまり安く出回っていないようなのでネット上で該当箇所を探してみると、どうにか見つけることができました。

http://home.primus.ca/~remedy3/Questing Beyond.htm

Looking outward we see many faces, look inward and all is the One Head. If a man could but be turned about - by his own motion or by the happy pull of Athene - he would at once see God, and himself, and the All.


ギリシア神話でゼウスの頭から生まれたとされる女神アテナ(Ἀθηνᾶ, Athēnā、アテーナー)ですね。ギリシャ神話の女神の名前を英語読みしてそのまま表記しているので分からなくなっていたのでした。「アシーヌが幸運にも引っ張って」は自分で向きを変えることに対比してアテナ神の恩寵の導きによって自己への振りかえりが生じることの表現でした。

英訳を頼りにして調べると、これはプロチノスのエネアデスのエネアス6・第5論文「有るものは同一のものでありながら、同時に全体としていたるところに存在するということについて」第二編7章からの引用でした。下にこの7章の全文(英訳)があります。
http://www.sacred-texts.com/cla/plotenn/enn613.htm

参考までに『プロティノス全集』中央公論社から邦訳をあげておきます。

『つまり、「(真の)われわれのもの」や「(真の)われわれ」は(真に)有るものへと導きかえされるのであって、われわれはあの真に有るものやそれから最初に発出したものへと昇っていき、あの世界にあるものを、その影像や印影を持つことなしに直知するのである。だが、もしそうであれば、それは、われわれがあの世界に有るものだからこそなのである。それゆえ、もしわれわれが真なる知識にあずかれば、われわれはあの真に有るものとなるのであるが、それは、われわれのなかにそれらの一部を持つからではなく、われわれがその真に有るもののなかにあるからである。だが、われわればかりでなく、他のものも真に有るものであるから、われわれは(他のものも含めて)すべてが真に有るものであることになる。したがって、われわれは真に有るものであり、かつ真に有るもののすべてと渾然一体をなしていることになる。したがって、われわれはすべてであり、一つであることになる。
しかし、われわれは、自分たちの依存しているもの(すなわち「真に有るもの」)から外に目をそらすから、自分たちが一つであることに気付かないのであって、それは、内側に一つの頭を持っていながら外側に向いている多くの顔のようなものなのである。だが、もし人が自分の力によってであれ、幸運にもアテナご自身に引かれることによってであれ、(内側へと)向き直ることができるならば、彼は自己自身を神として、また万有として、見ることになるであろう。彼は、初めのうちは自分を万有として見るのでないけれども、やがて、「自分をどの方向に据えて、どのように規定すればよいのか、どこまでが自分なのか」わからないままに、有るもの全体から自分を区別することをやめ、どこにも進まず、まさに万有の据えられているその場所にとどまっているうちに、万有全体と一体化することになるのである。 』