2011年9月11日日曜日

ダグラス・ハーディング『顔があるもの顔がないもの』 アシーヌとは?

ダグラス・ハーディング『顔があるもの顔がないもの』高木悠鼓訳を読んでいて意味の分からない一文に出会った。プロチノスの引用なのだが…
「向こうにはたくさんの顔があるが、ここにはそのすべての顔のたった一つの頭がある。もし、自分自身の動きか、アシーヌが幸運にも引っ張って、ただ、向きを変えさえすれば、内側を見て、ここの自己、神、そして、そのすべてを見つけるだろう。」

「アシーヌが幸運にも引っ張って」のところが分からない。原文で確認したいところだが、古書でもあまり安く出回っていないようなのでネット上で該当箇所を探してみると、どうにか見つけることができました。

http://home.primus.ca/~remedy3/Questing Beyond.htm

Looking outward we see many faces, look inward and all is the One Head. If a man could but be turned about - by his own motion or by the happy pull of Athene - he would at once see God, and himself, and the All.


ギリシア神話でゼウスの頭から生まれたとされる女神アテナ(Ἀθηνᾶ, Athēnā、アテーナー)ですね。ギリシャ神話の女神の名前を英語読みしてそのまま表記しているので分からなくなっていたのでした。「アシーヌが幸運にも引っ張って」は自分で向きを変えることに対比してアテナ神の恩寵の導きによって自己への振りかえりが生じることの表現でした。

英訳を頼りにして調べると、これはプロチノスのエネアデスのエネアス6・第5論文「有るものは同一のものでありながら、同時に全体としていたるところに存在するということについて」第二編7章からの引用でした。下にこの7章の全文(英訳)があります。
http://www.sacred-texts.com/cla/plotenn/enn613.htm

参考までに『プロティノス全集』中央公論社から邦訳をあげておきます。

『つまり、「(真の)われわれのもの」や「(真の)われわれ」は(真に)有るものへと導きかえされるのであって、われわれはあの真に有るものやそれから最初に発出したものへと昇っていき、あの世界にあるものを、その影像や印影を持つことなしに直知するのである。だが、もしそうであれば、それは、われわれがあの世界に有るものだからこそなのである。それゆえ、もしわれわれが真なる知識にあずかれば、われわれはあの真に有るものとなるのであるが、それは、われわれのなかにそれらの一部を持つからではなく、われわれがその真に有るもののなかにあるからである。だが、われわればかりでなく、他のものも真に有るものであるから、われわれは(他のものも含めて)すべてが真に有るものであることになる。したがって、われわれは真に有るものであり、かつ真に有るもののすべてと渾然一体をなしていることになる。したがって、われわれはすべてであり、一つであることになる。
しかし、われわれは、自分たちの依存しているもの(すなわち「真に有るもの」)から外に目をそらすから、自分たちが一つであることに気付かないのであって、それは、内側に一つの頭を持っていながら外側に向いている多くの顔のようなものなのである。だが、もし人が自分の力によってであれ、幸運にもアテナご自身に引かれることによってであれ、(内側へと)向き直ることができるならば、彼は自己自身を神として、また万有として、見ることになるであろう。彼は、初めのうちは自分を万有として見るのでないけれども、やがて、「自分をどの方向に据えて、どのように規定すればよいのか、どこまでが自分なのか」わからないままに、有るもの全体から自分を区別することをやめ、どこにも進まず、まさに万有の据えられているその場所にとどまっているうちに、万有全体と一体化することになるのである。 』

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