2009年5月27日水曜日

ヘレンのACIM解釈について 3/14

この小論の目的はジュディの語るお話を批判的なスポット・ライトの下に置くことである。彼女の話を検証する中で、本当に私はより大きな物語を検証している。それは何年もの間様々の形態で語られてきた話で、彼女の話はその一つに過ぎない。 だが彼女の話を検証するとはいえ、彼女がコースの歴史上ではたした役割を否認するつもりはない。ジュディは素晴らしい女性であって、過去、現在、未来にわたるすべてのコース学習者に計り知れない贈り物を与えてくれた。しかしそのことは、私たちが気づいた事実に反して、彼女の話を検証する妨げになってはならない。また彼女の話が実際に何をなしているのか認識することを妨げてもならない。 それはケン以外のすべての解釈を徹底的に退けるもので、それは彼らがコースの書記者、そしてコース自体からも切り離されることを意味している。このことを含意するために彼女の話は全くコースからの証拠を必要としない。他の解釈はただケンと一致しないということを見るだけで、論駁されるのである。

彼女の話は多くの点で疑問視されるだろう。例えば、ケン・ワプニクはヘレンから多くのコースの教えを受けたと主張しているようには見えない。 (「彼女はコースが何を語っているのか他の人々に説明するのは、直接的であれ間接的であれ、きわめてまれでした。思い起こすと2度だけそうしたことがありました。」)1 また、ビルを知っている人が彼のコース解釈はヘレンと異なっていたと主張している。ケンでさえこうほのめかしている。(「ビルは、ジュディと彼女がコースについて発表することに自分が同じ立場であると、より一層感じ始めた」)2

しかし、小さな問題は捨てておいて、二つのことに焦点をあわせようと思う。第一にヘレンのコース解釈はどのようなものなのか?第二にケンの教えはそれと調和しているのか?別の言葉で言えば、ヘレンの理解からケンの教えに至る直線的な血脈が存在するのか?ヘレンの解釈についての問題に答えるために、私はただ二つの論拠を用いるつもりだ。それはケンのヘレンについてのコメントとヘレン自身が書いたものである。私はヘレンに会ったこともないし、だから彼女をよく知るケンと彼女自身に頼ろうと思う。この小論はすぐにたやすく読めるものにはならないだろう。そして論争を引き起こすものと見なされるような結論であってもそれを描くことから逃げるようなことはしないつもりだ。この検証はやらずにすますことの出来ないものだ。このようなお話はあまりにも多くの人の心にきわめて強い支配力をおよぼして、その結果ただ検証されずにきているものなのだ。

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1. Absence from Felicity: The Story of Helen Schucman and Her Scribing of 'A Course in Miracles,' 1st ed., p. 363.

2. Absence from Felicity, p. 376.

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